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見て見ぬふりはもういらない。誰かのために、ではなく、自分のために。

パリの9区にある小さな劇場を囲ったアパルトマンで暮らしていた頃、門の左手にはギリシャ料理店があり、沿道にはウッドデッキ調の木材の枠組みではみ出すようにテラス席が設けられていた。その空間は新型コロナウィルスの影響で店内での営業が困難になり、テラス席であれば営業が可能だった時期の名残でもある。
現在フランスでは、全面的にレストランの営業が停止しているので、お店のオーナーや従業員が軽く打ち合わせをしたり、単に何も使われないままテーブルと椅子が積み上がっていたりする様しか見受けられない。

わたしが引っ越した当初からそこには、寝袋を敷いて寝ている男性がいた。真っ黒な、さらに土色で汚れて穴も開いていて、無機質で匿名、どこかの道端で見かければすぐさま清掃員に片付けられてしまいそうな布にくるまり、彼は目をつぶって寝ていた。はじめて彼を見たときに調子が悪く倒れているのではないかと心配になったのだが、体が上下にゆったりと動く様をみるとしずかに眠っていることがすぐにわかった。
そこから歩いて1分ほどの向かいにあるMONOPRIXというスーパーにも、おそらく30代か40代ほどであろう、青い目をしたブロンドの男性が雨の日も風が強く吹く日も、目の前の道路が工事中であっても移動をすることなくそこにじっと寝泊まりをしていた。
わたしがコインランドリーに行く途中その道を通ると、彼はじっと眼差しをこちらに向けてくる。「あなたは何も施しをくれないのか」「この姿を見て見ぬふりをするのか」責められていると感じるのはこちらの勝手な思い込みではあるが、どんなふうに手を差し伸べるのが正しいかわからないまま、もやもやを抱えて通り過ぎる日々が続いた。

パリ、それはきらびやかでおしゃれな雰囲気、たった二文字の美しい響き。街中を歩いていると出くわす光景。あらゆるレストランと、カフェにはとめどなく会話を続ける人の姿。多くの芸術家が暮らし、エッフェル塔や凱旋門など歴史的建造物があちらこちらに点在する場所、最先端の流行をいち早く取り入れるパリジャンそしてパリジェンヌ。

フランスというと、おそらく多くの人にとって、その国の印象はパリのイメージと密接に結びついている。が、実際には決して美しいことばかりではない。街中の至るところにゴミや食べ物の残りが落ちているし、中心部では数百メートル間隔ほどの距離で路上生活者を見かける。昨年末にはSDF(Sans Domicile Fixe)とよばれる固定の住居を持たない人たちの数は30万人にも及び、2012年の数字から二倍にふくらんだ。およそ18万5千人近くが緊急一時宿泊施設に滞在、10万人は難民申請のための施設に、1万6千人が貧困街で暮らしているという。そこにSans-Abriとよばれる路上生活者の数を含めればすべてを数えるのは難しい、とある財団は語っている。

多くの場合、路上で生活し物乞いをする人たちは取り締まられることなく可視化されている。ホームレス状態にある彼らがどこか人気のないところに追いやられたり、警察が排除をしたりという場面にでくわしたこともない。ただ毎日同じ場所に、そこにいる。例えば日々の買い物にいくときも、仕事の通勤路にも顔をみかけるのだから、知り合いもできて、「今日はどう?元気?」などとあいさつを交わしたり、スーパーで買ってきたパンを渡したりする光景もしばしば目にする。先日はボランティア団体の若者数人が、地面に一緒に座り込んで話を聞いていた。日本だと公園や河川敷などにいることはあるけれど、ビルやオフィス街に座り込む姿はあまり見かけない。路上生活者の姿は気づいたらいなくなっていた、ということも多いだろう。


昔代々木上原の近くに住んでいた頃だったか、高架下にビニールシートで部屋を作り必要な生活道具を揃えて暮らしている高齢の男性がいた。高架下だから雨もしのげるし彼にとっては快適な居場所だっただろう。しかしある日、すべてのものが忽然と姿を消した。新しく貼られた壁の張り紙にはこう書いてある。「この場所に物を置くことは禁止されています」。紙に書かれた内容を読んだとき、彼の存在とそこで暮らした日々、日常を物として捉えられていることに対して、憤りをおさえきれなかった。男性はどこにいったのだろう、うまく別の場所をみつけて暮らしていけるといいのだけど、と心の中で祈るしかできないじぶんの不甲斐なさにも情けなくなった。そんなふうに後悔するなら彼がその場にいるときから声をかけておけばよかったのだ。それすらもできない勇気の欠如、自分の弱さを感じる瞬間だった。

もしかしたらそこにいたのはわたしだったかもしれない。屋根もなく路上での生活を余儀なくしていたのかもしれない。今、偶然にさずかった幸運であたたかい部屋でパソコンに向かって文字を書いているけれど、彼と同じような人生を歩んでいてもおかしくはないはずだ。自分の生まれ育った環境、教育、それらがたまたま恵まれていただけで。

「何もできない」という無力感を前に、嘆いていても仕方がないとはわかっている。だから今できることを考える。あれをやってほしい、と指示をされる前に当事者に話を聞いて行動に移す。その繰り返しでしか他者に誠意は伝えられないと思うようになったのはいつからか。

振り返ってみると、身体の障がいをもったクラスメイトは小学・中学校と同じクラスにいた。車椅子で生活をしているから、どれほど席替えをしても彼女だけは変わらずいつも、移動がしやすい前の扉の席があてがわれた。体育や音楽の授業で教室を移動しなければならないとき、移動を手伝うのは足を自由に動かせるわたしの(あるいはわたしたちクラスメイトの)自然で当たり前のふるまいで、積極的に車椅子の持ち手をにぎった。食事の手伝いもした。彼女はうまく話せないけれど、すべてを見ている。すべてを知っている。だから絶対に相手の思いを尊重して向き合う。「支援する」とか「助ける」といった気持ちは何一つ持たなかった。ただの友だち、であるということだけが重要な事実だった。
大学時代には小さなNPO団体でヘルパー事業のアルバイトをして、重度訪問介護の資格を取得した。もっと本人が生きたいようにいられる社会になれたらいいのに、そう願いながら彼らが日常生活で直面する、社会のあらゆる壁がわずらわしくて仕方がなかった。どうしたら段差をなくせるのだろう、制度を変えるべきかひとりひとりと向き合うべきか。どのような立場で社会と関わるかは就職活動をしたときの大きなテーマだったように覚えている。

当時、誰かに言われたことがある。「あなたは障がいを持った人を助けてあげてえらいね」。いったい何を言っているんだろうと疑問に思った。えらいも助けてあげるもなにも、当たり前のことをしているだけなのに。特別なことはなにひとつしていないのに。むしろ心に素直でありたい、誠実でありたいというエゴイストの欲求なのだから、責めてくれたってかまわないのに、褒められるなんて意味がわからなかった。

さまざまな縁もあって、社会人生活も8年くらい経ってからは、これまで培ってきた技術や知識をもとに、困っているひとが少しでも減ればという思いから外国人支援のNPO団体で働き始めることになった。

たったひとりが活動に関わり始めたからといって社会の問題がすぐに解決するわけではない。長い間じっくりと時間をかけて変わることもあれば、変わらないこともあるだろう。ただひたすらに困難さに向き合い辛抱強く取り組むしかないのも現実である。
弱い立場にあるひとにどのような手を差し伸べるのが正しいかなんて答えはわからない、一人ひとりの状況も、求めるものも異なるのは当然である。

それでも見て見ぬふりをできない。お節介でもしつこくてもいいから、ひとりの行動から社会を変えられるきっかけになるかもしれない。その可能性にかけてみることはじぶんの意志によるものであり、だれかからの借り物でもない、決意である。

フランスは最初のロックダウンから1年が経過した。

この世界的なパンデミックで仕事を失うひとが増えて、未来の見通しが立たず、経済的な不安が襲うなかでもできるだけ、物事の明るい部分を見ながら一歩ずつでも、着実に行動できますように。じぶん自身にそう誓いながら、あらゆる困難を抱えた人が生きやすいと感じられる社会の実現のために、今日もわたしは生きていく。

お読みいただきありがとうございます。サポートは社会の役に立つことに使いたいと思います。