ジェイ・スパークリング2000 ~BY THE GLASS
海賊が主人公の冒険活劇映画を見た後で、タツヤはユウジとリューの三人で砂浜へ行った。
あと三十分もすれば、夏の海岸に遅い夕暮れが訪れる。マングローブの黒いまでの緑が生い茂る小径を抜ければ、其処に白いヴィラがある。島を反時計回りに回るのだ。
裸足の爪の間にさらさらした砂の抵抗を感じながら、不規則な三組の足跡が小さな崖を上って行く。黒い頭が二つ、夕陽色の茶色い頭が一つ、緑と白のコントラストの中を進んでいく。
ヴィラは一年ほど前に空き家になった。それまでは管理人がいて、時々見回りに来ていたので島の少年達の誰もが立ち入ることは不可能だった。
今は荒れた庭にハイビスカスが咲き乱れて、往時の居住者の優雅なひとときを想起させるのみだ。
まるで死人花のような色、とタツヤは言う。だが、ユウジは笑って取り合わず、リューには死人花が何の花のことなのか判らなかった。リューは母親がフランス人のハーフの少女で、日本に住んだことがないので死人花を知らない。
お墓に咲くんだよ、とユウジが説明したけれども、ニューカレドニアのお墓には赤い花は咲かないと言ってきかなかった。
ヴィラの中は置き去りにされたクローゼットの木の香りが漂い、古びた扇風機が埃を被っていた。壊れたラヂオがリヴィングのサイドボードに載っている。目を閉じれば、古えのダンスミュージックでも聞こえてきそうだ。
タツヤは、キッチンのシンク脇にぽつねんと置かれた空の瓶を手に取った。
黒いボトルの腹に金文字で大きく書かれた「J」の文字と、[ジェイ・スパークリング2000]の文字が目に付いた。
途端に脳内に流れ出す極彩色のイメージと音楽。黄色いソファに座ったヴィラの若い主がシャンパングラスを掲げる。その傍らに集まった古くからの友人達。さんざめく笑声と乾杯の詞。遠い波のざわめきが被さる。キッチンから銀のトレイを抱えた美しい妻が何か言っている。はにかんだような笑顔だ。
何を言っているんだろう?よく聞こえない。
タツヤは眩暈を感じていた。気付くと、ボトルを抱えたままキッチンの壁に凭れて立っていたようだ。ものの五分も経っていない。まだ窓から見える夕陽は傾き始めたばかりだった。
白昼夢というやつかも知れない、とふと振り返るとユウジとリューの姿は無かった。
ヴェランダの端に、ペンキの剥げ落ちた子供用のブランコがあった。其処に座った二人がぎごちない接吻をしているのを見た。
夏の終わりも近い。
十八年経った今でも、島の白い砂は変わらない。ただ、押し寄せる環境破壊の波に曝されて、マングローブの数が減りつつある、と所有国の環境省が言っていた。
そんなことは百も承知で、タツヤは戻って来た。
島周辺の海洋遺跡を発掘するのが仕事で、午前中は専らエメラルドよりもなお深い緑の海に潜っていた。半分は少年時代のお宝探しの延長気分だ。海は優しく、時には恐い面も見せるが。タツヤは幸いにも、海の幸せに包まれていた。
夕暮れになると、反時計回りに歩いて島を巡り、白い我が家に戻る。
十八年前まではよく三人で歩いた小径だ。今は一人で歩く。ユウジはいない。ジャーナリストになるといって中東へ行ったまま帰らぬ人となった。
白いヴィラを赤いハイビスカスが取り囲んでいた。ヴェランダの端のブランコから、幼い我が子が手を振っているのが見える。タツヤも手を振った。
茶色い頭の息子が背後を振り返る。其処には夕陽色に似た長い髪の妻がいた。
今なら判る。妻がはにかんだ笑顔で言っている言葉が。
「あなたをとっても愛してる」
〔FIN〕