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無自覚に人を追い込む「優しさ」~『すばらしき世界』

ぼくが好きなYouTubeのチャンネルに、『おまけの夜』というものがある。

映画を見た後に、深夜のファミレスでその映画についてワイワイ語り合うよう時間が一番幸せ。そういったコンセプトで、映画に詳しい人も詳しくない人も、対等に感想を語り合うというチャンネルだ(映画の他に、音楽なども語っています)。

まずこのコンセプトが楽しい。もちろん、痺れるような高級な批評も楽しいのだが、国語のテストとは違って、映画の感想に「たったひとつの正解」はないのだから、多少ピントが外れていたとしても、「好きだ!」という気持ちを熱く語り、「楽しいぜ~!!」と思えたら、それがその人にとっての「正解」だ。

今「多少ピントが外れていたとしても」と書いたが、『おまけの夜』に出演されている方のコメントのピントが外れているわけではない。『おまけの夜』をつくった方である柿沼さんは、映像作家をされているということで、プロの視点を持っている。さすがだな、と思わせるプロの視点を持ちながらも、感想のベースに、一般人である「おれたち」の感覚があり、それゆえに大学時代の深夜のファミレスを思い出させてくれる。

その『おまけの夜』で、『すばらしき世界』という映画について語り合う動画がアップされた(かなりストーリーを語っていますので、映画をまだ観ていない方はお気をつけて)。

(左の方がお笑い芸人で、2020年に481本の映画を観たというジャガモンド斎藤さん。右の方が柿沼さん。)

『すばらしき世界』は、あまりにも「まっすぐ」すぎる男の物語だ。13年という時を刑務所で過ごしたこの「まっすぐ」すぎる男の、出所して社会で生活するための苦闘、そしてそれを支える人々との交流を描く。

この役所広司を見ていただければわかるように、『すばらしき世界』の主人公である「まっすぐすぎる男」正夫は、元ヤクザだ。

『すばらしき世界』はヤクザ映画ではないが、齋藤さんはヤクザ映画が好きだということで、『仁義なき戦い』のパターンを踏まえた上でこの作品を観ていたため、その予想に反した展開に泣いてしまったそうだ。

また、『ジョーカー』との類比について触れていた個所もあり、これはぼくも『すばらしき世界』を観ながら「あれ?これ『ジョーカー』じゃね!?」と思っていたので、そこが言語化されていたのは非常に嬉しかった。

一方、柿沼さんはお父さんが非常に「まっすぐ」な人だったそうで、自身が見てきたお父さんの人生と、『すばらしき世界』の正夫とを重ねて観たこの映画の感想を伝えていた。

自分の経験と映画が重なるとき、経験に対する感じ方が変わる。柿沼さんの感想は、映画を観た人にとって、虚構の登場人物と実在の人物の人生が重なって見えてくる非常に豊かな感想だった。

26分強の動画の最初から最後まで、柿沼さんと斎藤さんの映画の観方を大いに楽しむことができた。ただ一点、ぼくとは意見が違うところがあった。正確に言えば、この動画を観たことで、ぼくが映画を観た後に感じた感情の正体がわかった。それはこの映画で描かれる「優しさ」に関する視点だ。

ぼくが劇場を出たとき、一緒に見ていた友人に向けて伝えた最初の感想は「クソー!」だった。

主人公の正夫が迎えた運命、そして周囲の登場人物が象徴する社会の圧力に対する悔しさの表明だ。

一体何に対して「クソー!」だったのか。もしかしたら、ぼくが悔しさを覚えたのは映画に対してではなくて、自分が見てきた社会に対してだったのかもしれない。だとすればぼくのピントがずれているのだ。しかしそれはそれでいい。深夜のファミレスのテンションが重要だ。

「クソー!」の正体。それは、多くの人が「優しさ」と考えているものを使って、人を追い込んでいくこの社会の仕組みに対する違和感だ。

これより、ネタバレを含む時空間に入る。



『すばらしき世界』では、「人を助けるよりも、まず自立せよ。そのために我慢をせよ」という主張を受け入れていく過程が描かれている。

「人を助けるよりも、まず自立せよ。そのために我慢をせよ」。これは、家や学校で私たちが大人から受け取り続けてきたメッセージだ。

このメッセージを骨の髄まで受け入れることで、私たちは社会化する。いや、してしまう。社会化には価値があることはわかっているのだが・・・。

もちろん、カッとなったらすぐにブチ切れるような人ばかりでは社会は成り立たない。だから私たちは人と仲良くなるため、あるいは周囲の人と円滑に交流する・しないための作法として、「感情を抑える」ことを学ぶ。

繰り返しになるが、作法として感情を抑えることは大事だ。しかし、私たちは感情を抑えすぎて、もはや自分が本当にやりたいこともわからなくなってしまっているし、社会の不正、もっと身近なところで言えば、自分が所属している企業の悪いところに対して声をあげることさえもできなくなってしまっている。これは問題だ。

なぜ私たちは、自分の気持ちもわからなくなるほどに感情を抑えてしまうのか。教育や学校は、本来そこに通う個人の幸福と、彼らが社会に出たときにこの社会をよりよい場所にするための学びを行う場所であるはずなのに、なぜその成果が「自分の気持ちがわからなくなる」ということなのか。

私たちは、この損失の重大さに気づくべきだ。

正夫はまともに教育を受けていない。だから感情は抑えない。しかし手段も「暴力」しか持ち合わせていない。だから観ている我々はすごくハラハラする。

でも、この「感情を抑えない」姿に、我々はどこか憧れを感じる。それこそが人間らしい姿なのではないかと希望を託す。

実際、正夫は感情のままに行動することでチンピラから弱い人を助けたりする。そういった意味で言えば、これは一種のヒーロー映画だ。

しかし、このまっすぐすぎるヒーローは、まっすぐすぎるゆえに、器用な人から見ればあまりにも心もとなく見えるのだろう。事実、正夫の職探しは前科持ちであることによって難航し、正夫の精神状態も危ういように思われる。

この映画では、そんな正夫に対して「優しく」社会復帰を手助けする人々が登場する。

その人たちは「正しさ」を説く。まるで正しい側にいる自分の存在を確かめるかのように。

「正しさ」には我慢がつきものだ。そしてある種の「正しさ」には際限がない。学校では、勉強することが「正しい」。勉強をしていい成績を取ることが「正しい」。いい成績を取ったら、もっといい成績を取ることが「正しい」。いい成績を取っている人は、いい大学を目指すことが「正しい」。

ああ、「正」という字は、数を数えるときには役に立つが、このように数行の中に7つもあると恐ろしい。

確かに向上することは「正しい」。しかし今を犠牲にして向上し続けることを強いてくるのはなぜなのか。今を犠牲にし続けて、その結果辿り着くゴールに幸福は待っているのか。今を犠牲にし続けるのは「正しい」のか。

私たちは今を犠牲にすることを「正しい」ことだと信じてやってきた。しかしその結果、何をやりたいのかもわからなくなってしまった。

そして、正しいことを言ってくる人は、だいたい優しい。親も教師も、愛情ゆえに正しいことを言ってくるのだ。

しかしもうたくさんだ。

過去に悪いことをしてしまった人がいる。これは犯罪ほどのことでなくてもいい。学校でイタズラをしたということもあるだろう。

このような人を目の前にした場合、「優しい」人は、次も同じことをすると決まっているわけではないのに、先回りをして「心配」をする。こういうのを「取り越し苦労」と呼ぶのだが、それは置いておこう。

心配をする人は「我慢」を強いてくる。「お金はいつなくなるかわからないんだから、あまり使わないで今の内からしっかり貯めておくんだよ」といった感じだ。その人は急にお金がなくなったことがあるのだろうか。あるいは「勉強もできないやつは社会でやっていけない」と脅してくるパターンもある。そう言ってくる人はたいてい勉強「しか」できない。

「心配」を「愛情」や「優しさ」だと思っているとしたら大きな勘違いだ。「心配」する人は正しさを人に押しつける。それはプレッシャーにしかならない。

この映画では、なぜ誰も「正夫さんはこんなに優しいんだから大丈夫だよ」と言ってあげられなかったのか。

13年間刑務所にいた人がシャバに出てきただけでもすごいことだ。人の手を借りながら生活保護を受けて暮らす。すばらしいじゃないか、昔は犯罪に手を染めていた人が、今は誰にも迷惑をかけていないのだから。

こんなことは当たり前かもしれないが、「人」をベースにした考え方をすれば、その人の過去と比べて今が少しでも前に進んでいるのなら、それは「成長」だと言える。「正しさ」をベースに考える人は、「常識」や「社会の基準」のような幻想を抱いているために、人が見えないのかもしれない。

確かに、『すばらしき世界』で正夫を支え続けた人々は、決して見捨てないというその面では間違いなく「優しい」し、人としてもすばらしい。

だが、社会生活1年生のような人に向かって、もう相当な学年になっている自分たちの正しさを押しつけるという意味では「優しい」のではない。

映画の最終盤、正夫は押しつけられた正しさを自分のものにしようとする。そこにはもの凄い「我慢」があったはずだ。そのプレッシャーが、あのような結末につながってしまったのではないかと思う。

本当の愛情・優しさは「信頼する」ということだ。心配より信頼だ。信頼からしか愛は出ない。いつも心配している人は心の中に恐れがあるから、「正しさ」にすがりつく。

「人を助けるよりも、まず自立せよ。そのために我慢をせよ」。これは恐れから発せられるメッセージだ。他人の恐れで抑圧されているうちに、私たちは自分の心がわからなくなってしまう。学校も教育も、それを支える大人も、「心配」「恐れ」をベースに私たちを監視している。でもそれでは、社会は永遠に損失を繰り返すだけだ。

私たちは「信頼」をベースに社会を構築していきたい。信頼するということは、その人を「自由」にするということだ。

自由にさせすぎると犯罪者になると考える人もいるかもしれない。しかし、犯罪者になった人は、自由がなかったから犯罪者になったのだ。心の中が恐れで満たされていて自由がないから犯罪者になったのだ。

だから、目の前の人を信頼して「大丈夫だよ」と言ってあげる。もちろん言葉だけでなダメだし、暴力もダメだ。冷静に社会の秩序を仕組みの面からも感情の面からも考えつつ、「信頼」と「大丈夫」を積み重ねていきたい。

それこそが「優しさ」であり、それが実現した世界が「すばらしき世界」なのではないか。

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