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誕生日のデート、それは不要不急ではなかったから

おそらく誰にとっても人生初の緊急事態宣言の下、わたしは28回目の誕生日を迎えた。光の絶えないはずの東京の夜から灯りが消え、繁華街にはシャッターばかりが降りてうらさみしい。そんな状況でも、彼はわたしの誕生日祝いを開催することにこだわった。

これは不要不急ではない、と彼は言う。しっかり人と人との距離が取れることを条件にレストランを予約することにした。多くの店が営業を取りやめる中、事実上貸し切り状態で食事ができる小さなフレンチ・レストランが一つだけ見つかった。普段はなかなか予約の取れない人気店だ。料理は評判に違わず絶品だった。帰りがけにシェフが挨拶に来て「こんなときにお越し頂いてありがとうございました。」と頭を下げた。昨今の飲食店の窮状を思った。

彼は例年、わたしの誕生日に様々なプレゼントを用意してくれる。恒例になっているのは、ニコライ・バーグマンのブリザード・フラワー。それから下着の上下セット。年相応にささやかなジュエリー。その他、百貨店で一緒にいろいろ見て回る。今年は百貨店に行けないから、ECサイトを巡回する。

ポチポチと商品を買い物かごに入れながら、彼が「今年は特別なプレゼントがあるんだよ。」と言う。先日壊れた乾燥機のことかな、と想像していると、彼は思わぬことを言った。

「明日、在宅勤務にしたんだよね。」



4年程前、付き合ってまだ2〜3ヶ月という頃、彼はひどく酔っ払って帰ってきた。膝頭には大きなアザがあった。聞くと路上に止めてあった軽自動車にぶつかって転んだのだという。「何やってんの…」とあきれかえっていると彼はさらに缶ビールを煽りながら呟いた。


「どうせ俺は捨てられるから。」


「あなたは若くて未来があるし、こんな年寄りと付き合ってられなくなるよ。」


わたしは激しく抗議した。そして、またか、と絶望した。まただ。わたしの愛する人はいつまでたってもわたしが愛してやまない「その人」をぞんざいに扱うのだ。この人にとってこの人自身の存在は耐えられないほど軽い。

彼は自分自身の価値を知らないから、自分で自分のことを簡単に貶める。自分のさみしさや心許なさに手一杯で、自分の存在や言動がわたしに多大な影響を与えうるとは感じられていない。彼が彼自身を無下にすることが、わたしをもぞんざいに扱うことでもあると、わたしの存在を低く見積もっていると示すことでもあるとは気がついていない。

そんな人は今までもたくさんいた。「どうせ俺なんて…」とは耳が腐るほど聞いたことのある言葉だ。でも、今度こそきっと違う。そう信じて一緒になったのに。

わたしは機嫌を損ねて彼と口もきかずに不貞腐れて眠りについた。

翌朝、夜の記憶がないまま起床した彼は、何かがおかしいと察したようだった。ロクに返事もしないわたしをなだめすかして事情を聞き出そうとする。


「わたしは、あなただけは違うと思ってた!」


泣きわめくわたしに彼は「あぁ…」と頷いてすぐさま神妙な顔で謝罪した。

「ごめんね。覚えていないけど、酔っ払って弱気になったんだと思う。ありがとう。」

わたしは、はっとした。はじめて男性と話が通じた気がした。今まで同じことを何人かの男性に訴えても、怪訝な顔をされて「なんか…ごめん」と言われるばかりだった。ほんとうに彼は違うのかもしれないと感じた。

その後、彼が彼自身を貶めるようなことを言うことはなくなった。



未知の感染症が蔓延する中、「会わない」という選択肢はもちろんある。SNS上では「互いを大切にするからこそ今は会わない。」というキャッチフレーズが飛び交っている。加えて、彼の就いている職種は特に感染症の罹患のリスクが高い。

それでも、わたしは彼と会うことをやめていない。

そのかわり、やめたことはたくさんある。出社すること。必要最低限の日用品・食料品の買い物以外の外出。高齢の祖母のいる実家への帰省。友人と対面して会うこと。一ヶ月前に行われた友人の結婚式以来、彼氏以外の人間と3Dでまともな話をしていない。彼はなかなかテレワークのできない職種についているが、その彼の分を差し引いても他者との接触8割減という目標は達成できているように思う。

そう。彼と会い続けるために、わたしはあらゆる扉を閉めた。「うち」を守るために、ある種の関係性を「そと」と定義して、一旦遠ざけることにしたのだ。それは、あえて曖昧にしてきた関係性の内実が暴かれるという意味で残酷な決断を強いられることだった。

しかしそうであったとしても、唯一会い続けている彼が「ここに居る」ことに交換不可能な価値を見出してくれたこと。彼が「ここに居る」ことがわたしにとっての喜びなのだと彼自身が口先だけではない理解をしてくれたこと。彼が「ここに居る」ために互いがあらゆる手段を尽くそうと合意できたこと。すべてはこの4年間の日々の積み重ねの賜物だ。

彼には風流なところがあって、春には桜を、夏に花火を、秋には紅葉を、冬にはイルミネーションを律儀に見に行きたがる。今年は彼の仕事が特に忙しく、2人で花見をすることができなかった。わたしはスマフォで撮った街頭の桜の写真を彼に送り続けた。


4年目の春。彼は己の在宅に価値を見出し、わたしは一人で花見ができるようになった。わたしたちは円環的な時間の中で、ゆっくり前進してきたのだ。


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