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勢い余って履修登録した授業で詰む

 前期に履修登録した「作劇:実習」という夏期集中講義に行きたくない。できれば休みたい。

 ジェリービーンズのように輝いて見えた「作劇:実習」は、いざ当日を迎えてみると、どろどろに濁った不安の温床として私の心にのしかかってきた。ああ、前期の希望は何だったのだろう。「自分にとって恥ずかしくて無理矢理なことほどやってみなきゃ」と息巻いていた春休み明けのほほんとした自分をぶん殴りたい。

 とまあ、自分の悩みなんて星の数ほどいる日本中の大学生が嘆いているんだよなぁ、と無理矢理自分を納得させ、抱えている不安を言葉にすることで解消できたらなと思っている。

 そもそも、どうしてここまで「作劇:実習」が不安なのだろうか。それは、私に演劇の経験がないからである。大学で見かける演劇サークルのポスターから漂う敷居の高さ。身長も顔面も足りない私にとって、「演じる」という気高き行為はとてもできそうにない。なのに今、「演じる」状況に追い込まれてしまった。この未経験であるという不安こそ、第一の原因であろう。

 次は、友人の不安である。履修登録をする前に、zoomで授業説明なるものを受けたのだが、そこに私の知る名前はなかった。まあ、友人が少ないので、当然と言えば当然なのだが、問題はそこではない。私がひとりぼっちなのはかまわない。けど、私以外の人がグループを形成していて、ひとりぼっちの私に気を遣う展開だけは避けなければならない。果たして形成されたグループに飛び込む勇気が私に備わっているのかどうか。その不透明さが第二の原因だ。

 よし、不安の根幹は大体わかった。あとは、この「作劇:実習」をどう乗り切るかである。
 私は暗い。そのため、行動範囲も交友関係ともに狭い。そんな私が行動を起こす方法は一つしかない。それは、客観性を獲得することである。

 誰かに話すため。何かに書くため。ラジオで話すから。自分で把握できない物事に対峙するとき、私たちの体一つを頼りにするのは危険だ。不安に体を貫かれ、場合によっては他者の鋭い言葉のナイフで、心を傷つけられてしまうだろう。だけど、客観性はそんな生身の自分の分身になってくれる。不安の攻撃の身代わりになり、もろい自分自身を守ってくれる。

 と、書き手のどや顔が見える自己満文章が出てきてしまったところで文章をいったん切り上げたいと思う。
 とにかく、このnoteに書くネタにするんだ、という客観性で「作劇:実習」を乗り切りたい。怖いよ!

 鉛のように重たい不安を抱えながら、「作劇:実習」の行われるダンス教室へ向かう。一度も使ったことのない施設にびびりながら構内を歩いていると私たち受講生を誘うホワイトボードが立っていた。よかった、これで迷わないで済む。以外と敷居は低いのかもしれない。やっぱやってみないとわかんねぇよな。挑戦最高!と私は脳天気にホワイトボードを除いた。

「『作劇:実習』の受講生はダンス教室へ。着替えは一つ上の更衣室で済ませること」




この瞬間、私の不安は東京スカイツリーを超えたといってもいいだろう。ジャージだかなんだか知らないが、演じるにふさわしいユニフォーム、またの名をドレスコード、その存在に震えと汗が止まらなくなった。きっと、ダンス練習室に着くと、演じる集団がユニフォームに着替えていて、安tシャツと安ズボンをまとった私の汚い身なりを笑うのだ。演じる集団の一人が私を撮影し、SNSに上げ、住所を特定し、爆発物を送り届けられるかもしれない。

 などの被害妄想は不発に終わった。当然と言えば当然なのだが、あくまで授業。単位を取る一環として行われる集中講義に演じる集団もくそもないのだ。

 無事孤立することもなく、演劇という世界の広がりを入り口から感じながら、教室内では私の発する棒読み声だけが強烈な違和感となって浮遊したのであった。受けて良かった!演じるって、超楽しい!ピース!次回は「初体験:演じる編」を書きたいと思う。

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