神々の国のある場所~ダイアローグ神世七代<下>(『古事記』通読㊱ver.1.2)
※「ダイアローグ神世七代<上>」、「ダイアローグ神世七代<中>」に続く第三弾です。内容的には、「ヒルコはなぜ葦舟で流されたのか~イザナキとイザナミ、神世七代の第七代として(『古事記』通読㉟)」の続きです。
■国生みの儀礼が必要だった理由
皇子 イザナキとイザナミが国生みを行ったとき、先にイザナミが声をかけてはいけなかったのは、それではウマシアシカビヒコヂの神を再現する儀礼にならないからだというのは分かったよ。でも、なぜ、ウマシアシカビヒコヂの神は直接に国を作らなかったんだろう?
ウマシアシカビヒコヂの神が国を作れば、イザナキとイザナミも間違えることは無かったのに。
阿礼 ウマシアシカビヒコヂの神が直接に国を作ってしまっていたら、イザナキとイザナミは出番が無くなってしまいます。
皇子 それはおかしいよ。もしそうなら、『古事記』の神々は、イザナキとイザナミの活躍を言いたいがために、ウマシアシカビヒコヂの神にできる国生みをわざわざイザナキとイザナミにさせたことになるよ。
阿礼 そうですね。ウマシアシカビヒコヂの神が直接に国生みをされなかったのは、ひとつには、やはり、まったく新しいものを生み出すには、男と女の二神の神の力の合わさりが必要だったからだと思います。
二神の神の力の合わさりが新しいものを生み出すという思想は、縄文時代からあり(「通読㉔」)、それが伝承されてきたか、『古事記』の思想の基盤になっていたものと思われます。
阿礼 それに、ウマシアシカビヒコヂの神が国生みをされるとすれば、国を生ませる相手は「地」ということになります。
「天地初発」とあるように、地のパートナーは天ですし、天も地もそのものの神は存在しません。
ですから、そうなると、国は神々の子ではなく、神と地の子ということになってしまいます。
皇子 天つ神はいても天の神はいないし、国つ神はいても地の神はいないもんね。
阿礼 おっしゃるとおり。天も地も神々が活躍する舞台ですから、それ自体が神というわけではありません。
『古事記』には、ガイア(地母神=地の神)的存在も、ウラノス(全宇宙の支配神=天空神)的存在もありません。
ありもしないガイアやウラノス的なるものを投影して、もともとの神話を読み替えてしまうことが多大な災厄を招く結果になることは、歴史が教えてくれています。
アメノミナカヌシやアマテラスに全宇宙の支配神を見てしまうような一神教に影響された発想は、国家神道に育ってしまいました。それが、太平洋戦争の思想的背景となり、敗戦に至りました。
また、日本にガイア的な地母神を仮定してしまったことと失われた30年は無関係ではありません(「通読㉓」)。
逆の視点から言えば、『古事記』は、冒頭を無視してしまえば、ガイアやウラノスが容易に入り込んでしまう書物なのかもしれません。
■見えない神々がいる理由
阿礼 もうひとつ考えられる理由は、ウマシアシカビヒコヂの神が身を隠された神さまだということです。アメノミナカヌシの神からトヨクモノの神までは、独神であり、地にいる神や人々からその姿を見ることはできません。
皇子 人々と同様に国つ神も、独神の神々を見ることはできないんだね。
阿礼 国つ神に限らず、天つ神も、独神の神々を見ることはできません。イザナキとイザナミは、ヒルコと淡嶋を続けてお生みになったあと、高天原に参上って、天つ神のご意見を尋ねられたでしょう?その時何をされたでしょうか?
皇子 あ、イザナキとイザナミは直接意見を聞いたのではなくて太占に占っている!
阿礼 そうなんです。高天原に誕生された神々でも、独神の姿や声を直接は知ることはできません。それが、身を隠されたということなのです。
姿や声もわからない独神が親では、それに独神の他に、親の代わりになる神々もいない状況では、別天つ神は、生まれた国や神々と切れてしまいます。独神であるウマシアシカビヒコヂの神が、直接国生みをされることには不安があるのですね。
皇子 そうなのか。でも、ちょっと待って。それなら、独神が身を隠さなければ、解決するんじゃないか?
阿礼 神々が、身を隠されたからには、それ相応の理由があったのだと思います。私にその理由はわかりませんが、もし身を隠していなかったと想像すると、なんとなくその理由がわかるような気がします。
皇子 どういうこと?
阿礼 天のおおもとの神々の姿や声が、他の神々や我々にも分かるとしたら、神の言を聞いたという神々や者どもがたくさん現れて、国は千々にばらばらになってしまうでしょう。
皇子 そうかな? 皆が天のおおもとの神々の姿や声を直接見たり聞いたりすることができたなら、神々や人々の意見は同じになって国はひとつにまとまるんじゃないのかな。
阿礼 そうでしょうか。立ち場が違えば意見は異なるのではないでしょうか。それに、視野や経験が違えば、天のおおもとの神々の姿や声の解釈が異なってきます。姿や声のどこを強く見たり聞いたりしたかによっても意見は変わってくるはずです。
同じものを見たり聞いたりしても、誰もが同じ意見になることはありませんよ。皇子も、同じものを見たり聞いたりしているのに、なぜ私の考えを分かってくれないのかと腹を立てたり悲しくなったご経験はおありになるでしょう?
皇子 そう…だ…ね…。皆が天のおおもとの神々の姿や声を直接見たり聞いたりすることができても、国はひとつにまとまらないか。
阿礼 むしろ、天のおおもとの神々の姿や声を直接見たり聞いたりしていることが自信になって、我こそが天のおおもとの神々の代弁者だと驕り高ぶり、他者の意見を聞かず、妥協を知らない神々や人々ばかりになり、世は乱れて国が壊れてしまうでしょう。
皇子 恐ろしいね。
神の姿は見えないという発想はキリスト教にもあります。神の姿を見ることができるのは、ケルビムという天使だけであり、それも、神の姿を映像として見るのではなく、智慧で把握することによって見るのだそうです。
この神を見る智慧をソフィアと呼びます。日本のカソリックの大学である上智大学の英語名のソフィア・ユニバーシティは、ここから取られているそうです。
プロテスタントには、神の姿を知覚できないとする宗派も知覚できるとする宗派もあります。
日本仏教では、極楽に行けるか分からないが構わないと説いている『歎異抄』を擁する親鸞の思想が、「神の姿を見ることができない」に近いと言えるかと思います。
■神々の世界の転写
皇子 ウマシアシカビヒコヂの神が直接は国生みできない理由は分かったよ。ウマシアシカビヒコヂの神は、国生みする代わりに、神世七代の世界を創り上げたんだね。
阿礼 創り上げたのでは無く、神世七代の世界ができる契機となられたのですね。神世七代の神々は、ウマシアシカビヒコヂの神の創造物ではないですから。
皇子 そうだね。きっかけだね。
■神代七代を感じるとき
皇子 我々の国は、別天つ神の世界の反映だけど、別天つ神の世界はどのような世界か知ることができないから、神世七代の世界があるんだね。
阿礼 そうですね。
皇子 でもさ、日々のまつりごとや生活に追われていると、神世七代のことを忘れてしまうよ。
阿礼 宮中の儀礼があってもですか?
皇子 儀礼の時は思い出すけど、儀礼の時だけ思い出しても実際に活かすことはできないよ。
阿礼 まあ、それはそうですが、神世七代は皇子の中にも息づいていらっしゃいますから、普段も思い出すことはできるはずです。
皇子 天皇家の血筋のことだね。
阿礼 そうではありません。神世七代は家系とは違いますから、それぞれの代が系譜としてつながっているわけではありません。天皇家の祖神なのではありません。
皇子 そうだったね。でも、じゃあ、何なの?
阿礼 神世七代は理想の国を表しているのでしたよね(※)。
皇子 うん。
※注釈)神世七代が何を表しているかは諸説あるが、そのどれもに問題がある(「通読⑲」)。私の考えは次のとおり。根拠については(カッコ)内に番号を付した各通読を参考いただければ幸いです。
①別天神の世界の写しという概念が誕生する
(神世七代の一代目;国之常立神;「通読⑳」)
↓
②高天原の意味空間が拡張される
(神世七代の二代目;豊雲野神;「通読㉑」)
↓
③建築物の地盤や工作用土、耕作用地など、対となって組み合わさることで新たな意味を持つ全ての土台となるものの誕生
(神世七代の三代目;宇比地迩神・須比智迩神;「通読㉕」)
↓
④神域の誕生と食糧採取の予祝
(神世七代の四代目;角杙神・活杙神;「通読㉛」)
↓
⑤食糧ともなる生命の誕生の予祝
(神世七代の五代目;意富斗能地神・大斗乃弁神;「通読㉜」)
↓
⑥人や神々が生きるための環境以外の誕生とそのことへの言祝ぎ
(神世七代の六代目;於母陀流神・阿夜訶志古泥神;「通読㉝」)
↓
⑦宇摩志阿斯訶備比古遅神を再現し、地に国を生む
(神世七代の七代目;伊耶那岐神・伊耶那美神;「通読㉟」)
阿礼 その最後となる第七代が、ヒトの形を取ったということは、神々の理想の国は、私たちの心身から感じ取れることを表しているのではないでしょうか。
皇子 何で?イザナキとイザナミは私ではないよ。
阿礼 でも、皇子も神々を感じるでしょう?
皇子 感じると言っていいのかわからないけど、神々の気配を感じたような気になる時もあるけれど、神々が何を考えているのかなんて全然わからないよ。
阿礼 それで良いのですよ。
皇子 良くないよ。神々が分かるのが神官で、天皇は神官の長だろう。神々がわからなければ天皇どころか神官にすら劣るじゃないか。
阿礼 確かに神官は様々な神を分からなければ、存在する意味がありません。でもその長たる天皇が分かるべきはどのような神でしょうか?天のおおもとの神々なのではありませんか?
皇子 そうだけど…。
阿礼 それらの神々は身を隠されていらっしゃるわけですから、直接には何を考えているのかわからないのが当然なのです。
イザナキやイザナミでさえ、太占に占わなければ、その考えを知ることはできないのに、逆に、天のおおもとの神々の考えを直接に感じているという人物が表れたら、その人は何か他の神々につながっているのを、本人も分かっていないということに他なりません。
■人であり国であること
皇子 でも、それでは正しく天のおおもとの神々の考えを受けとめているかどうかわからず不安ではないか。
それに、さっき阿礼は「皇子も神々を感じるでしょう?」と言ったのに、神々が何を考えているのか全然わからなくてもそれで良いと言う。どっちなんだい。
阿礼 天のおおもとの神々すなわち別天つ神から、神世七代の二代目の豊雲野神(トヨクモノの神)までの神々は、身を隠されておりますので、私たちからはその考えを直接に知ることはできません。
身を隠されなかったのは、神世七代の三代目以降の神々です。
皇子 別天つ神の世界の写しが、神世七代の世界だから、身を隠されていない神世七代の三代目以降の神々を知れば、別天つ神の世界がわかるってこと?
でも、神世七代の三代目以降の神々が何を考えているのかも、実はわからないんだ…。
阿礼 皇子はとても正直ですね。
皇子 正直でないと…。聞いた質問が正直でないと、その正直でない質問に返ってくる答えは、本当に聞きたいことではないから、正直でないことには意味が無いんだ。
阿礼 わかりました。でも、心配にはおよびません。神世七代の神々は、七代そろって意味があるから、神世七代と言われているのですね。
その一代目と二代目は身を隠されていますでしょう。
第一代の国之常立神(ク二ノトコタチの神)の時間と、第二代の豊雲野神(トヨクモノの神)の空間に、神世七代の神々はいらっしゃるのですから、神世七代の三代目以降の神々が何を考えているかわからないのはあたりまえなのです。
皇子 そうか。よかった。正直に聞いて良かった。でも、神世七代の三代目以降の神々が何を考えているかわからないのは、困るではないか。
阿礼 そうですね。そこで、第七代がヒトの形を取っているのです。六代目は、面の完成と、そのことへの言祝ぎでしたよね。
つまり、全て出来上がった世界が受肉されたのが七代目で、だからこそ七代目が国生みをされたのです。
皇子 最初の疑問に戻っちゃったよ。神世七代は僕の中にも息づいているって言ったことの意味を教えてよ。
阿礼 神々がそうだから我々もそうしようと思うのが自然な発想ですよね。
皇子 そうだね。※
※注釈)「神がそうなのだから当然人もそうなのだろう」という発想は、当時は一般的であったことが多くの研究から明らかになっています。(「通読④」)
阿礼 高天原で、理想の国が人の形を取ったのですから、私たちの心身もまた理想の国でもあるはずなのです。
皇子 私たちは人であり国でもあるっていうこと?
阿礼 私たちの中に、神々の住まう国を見ることができるということです。神世七代の神々で、身を隠されていない三代目から五代目は、国の成立要件でありながら、人がどうあるべきかをも表しているのです。
皇子 どういうこと?
阿礼 三代目の宇比地迩神(ウヒヂニの神)・須比智迩神(スヒチニの神)は、建築物の地盤や工作用土、耕作用地など、対となって組み合わさることで新たな意味を持つ全ての土台となるものを表す神々ですが、人にあてはめれば、他者との出会いが創造を生むことを表す神々でもあります。
四代目の角杙神(ツノグヒの神)・活杙神(イクグヒの神)は、神域の誕生と我々の食糧採取を約束する神々ですが、それは、私たち一人一人が独立した存在であり、食糧として鳥獣魚介や植物などの生命を頂いて生きていることを保証してくれている神々でもあります。
五代目の意富斗能地神(オホトノヂの神)・大斗乃弁神(オホトノベの神)は、食糧ともなる生命の誕生を約束する神々ですが、我々ヒトが動植物と同じ命であることを保証されている神々でもあります。
六代目の於母陀流神(オモダルの神)・阿夜訶志古泥神(アヤカシコネの神)は、人や神々が生きるための環境以外があって全てがそろうことを伝える神と、そのことへの言祝ぎの神ですが、人も意識していることが全てではなく、意識していないことを含めて全てなのだということを感謝しましょうと教えてくれる神々でもあります。
皇子 ありがたいね。でもさ、それって阿礼の解釈に過ぎないってことない?
阿礼 そうですよ。
皇子 じゃあさ、神世七代は、僕の中にも息づいているとは言えないんじゃないの?
阿礼 神代七代の七代目が人の形を取って誕生されたことは、私たちが自分の心と身体に神々の国を聞くことができることを意味しているはずです。心と身体は一人一人違いますから、私は私の心と身体を通して自然に私の解釈が聞こえます。皇子は皇子の心と身体を通して響いてくるものに耳を傾けて皇子の解釈を得ればよいのです。
皇子 阿礼の解釈と違っても?
阿礼 違ってもです。
皇子 それでは国がバラバラにならないか?
阿礼 神代七代がバラバラになるような国を望んでいるとは思えません。
皇子 些細な解釈の違いでバラバラになるかもしれないよ。
阿礼 そのための身体です。確かに心は千々に乱れる時もありますが、身体に耳を澄ませれば、自然な立ち位置がすっと決まります。動きは千々に乱れる場合もありますが、そうならないための儀礼です。イザナキ・イザナミの国生みが教えてくれるように儀礼の型は大切です。
それに、考えを整えるために、こうして『古事記』を学ぶのです。
皇子 わかったよ。
神の国が天上にあるか、自分の中にあるかというのは、宗教を問わずポピュラーな議論です。
私が『古事記』冒頭から論理的に読み取ったのは、心と身体が不可分である個人の肉体と、他人の肉体との出会いの内に、神々の国があるのだろうということです。
個人の心の中ではなく、心と身体が一対となった個人間の出会いの中に、あるべき神々の国が立ち現れてくるよう、天に思いを馳せながら自らの内側に耳を澄ます。
この一に収斂されず多に発散されずのあわいの中に真実があるという思想が『古事記』にはあるように思います。
■出会いが神々の国を創る
阿礼 ただし、身体に耳を澄ませる、心に耳を澄ませるということに囚われすぎてもいけませんよ。大けがを負ったり、年老いたり、あるいは生まれながらにして身体より心の声に頼らざるを得ない人や場合もありますし、逆に、辛いことが続いたり、幼かったり、あるいは生まれながらにして心より身体の声に頼らざるを得ない人や場合もあります。
心と身体をバラバラなものと考えれば、心と身体の耳の澄ませ具合の割合はなんてことを考えてしまいますが、心と身体は同じものに別な名前がついているようなものですから、意識しないで意識するとよいかと思われます。
耳の澄ませ具合は、100人いたら100とおりの最適解があるのです。高天原に思いを馳せれば、思金神(オモイカネの神)もいれば、天手力男神(アメノタヂカラヲの神)もいるのが神々の国だとわかります。
それに、自分の意識や無意識に囚われてもいけません。神世七代はなぜ対か、それは自分の中をいくら探求しても、神々の国はそこにはない、他者との中に生まれてくるものだということです。
皇子 そうなんだ。阿礼が自分の心と身体に神々の国を聞くことができると言うから、てっきり自分の中に神々の国を見つけることができるのかと思ったよ。
阿礼 イザナキ・イザナミが神世七代の七代目だという意味を考えれば、そうはなりませんね。国は神々の子どもですから、一人の中に国を見つけることはできません。
皇子 わかった。瞑想したら聞こえてくるというわけじゃないんだね。
阿礼 そのとおりです。
皇子 もう一つ質問があるんだ。イザナキとイザナミは、国生みをしようと決めたあとで、なんでわざわざ天の御柱を二人別々の方向に回ったんだろう。一緒に回ればいいのに。
阿礼 それは…。
皇子 それは儀礼だから、そういうプロトコルだからって答えは無しにしてよ。その意味を聞いているんだから。
阿礼 はい、はい。イザナキとイザナミが別の方向から回ったのは、出会いを再現するためです。
皇子 あっ、そうか。それでわかった。イザナミもイザナキも、最初から知っている仲なのに、「あなにやし、えをとこを(なんとまあ、よい男だ)。」、「あなにやし、えをとめを(なんとまあ、よい女だ)。」と言い合うのは変だと思ってたんだ。出会ってない建て前だったんだね。でも、なんでわざわざという気はするよ。
普通に、「えをとこを(よい男だ)。」、「えをとめを(よい女だ)。」って愛を確認すればいいのに、「あなにやし」なんて言って、わざとらしいというか、ちょっと恥ずかしいよ。
阿礼 愛し合っている二人が、愛を確認し合って、みとのまぐはひをするのは、普通のことです。わざわざ、初めて出会った時のことを再現したからこそ、国が生まれたのです。
皇子 どういうこと?
阿礼 自分の中をいくら探求しても、神々の国はそこにはない、他者との中に生まれてくるものだと言いましたが、神々の国は、出会いの中に立ち現れてくるのです。
皇子 じゃあさ、もう既に出会っている人の間には神々の国は立ち現れてこないってこと?
阿礼 そうではありません。イザナキとイザナミだって既に出会っていたでしょう。既に出会っていても、全くの新しい出会いであっても、相手の中に新しいものを見つけることが出会いです。それがゆえの「あなにやし」です。
皇子 確かに。阿礼とはずっと前から知り合っているけど、こうして新しいことを教えてもらうと驚きがあるし、それって新しい出会いみたいなもんだもんね。
阿礼 逆に、相手が新しいことを言っても、いつもと同じようなことを言っているはずだと決めつけていれば驚きはありませんよね。
また、全くの新しい出会いでも、よく会うタイプの人だと決めてかかっているような場合には、それは出会いとは呼べません。
皇子 それに相手にもよるよね。自己完結しちゃってる人に出会っても、その新しい相手から何かが生まれる気がしない。
阿礼 そのとおりですね。だから、イザナキも、イザナミも、「あなにやし、えをとめを(なんとまあ、よい女だ)。」、「あなにやし、えをとこを(なんとまあ、よい男だ)。」とお互いがびっくりしあって国をお生みになられたのですね。
皇子 それぞれが、出会いに開かれていないと発見はないし、何も生まれてこないんだね。
阿礼 神々の国は、出会いの発見から始まる。その出会いは、受け身で得られるような出会いではなく、お互いが自分から行動を起こした結果として出会う、そういう出会いなんですね。
(つづく)
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※タイトル写真はJooinnより1945 AUSTIN 7
ver.1.1 minor updated at 2022/2/3(「■人であり国であること」の最後の阿礼の言葉を追加しました)
ver.1.2 minor updated at 2022/2/5(「■出会いが神々の国を創る」を追加しました)
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