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高天原に造られる国〜ダイアローグ神世七代<中>(『古事記』通読㉚ver.2.0)

「ダイアローグ神世七代<上>」からのつづきです。上下はもとは一記事だったのですが、加筆したら長くなってしまったので分割しました。

前回の記事から稗田阿礼と『古事記』一番の読み手であったであろう当時の皇子とのダイアローグ(対話)を復活させて、これまでの神世七代の物語を振り返っています。

前回<上>は神世七代の総論でした。今回は、それを受ける形で各論に入っていきます。第一代から第三代までが今回の範囲です。次回の記事から、ダイアローグではない通常の記事に戻ります。第四代以降のダイアローグは、第七代の記事のあとに書く予定です。

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■天に倣う

皇子 高天原たかあまのはらの「国」のように我らの国もあるべきだというのはわかるよ。
高天原たかあまのはらの「天」と「国」が鏡像であるのだから、我らの国も天と鏡像のようにならないといけないものね。だから天皇すめらみことは、我らが国が天の写しになるように、国見をするんだね。

阿礼 まったくおっしゃるとおりです。

皇子 でもさ、高天原たかあまのはらの「国」は、そもそもが「天」の写しとして誕生したのだから良いけど、我らの国が天の写しになるにはどうしたらよいの? 写しといったって、天の何を写したらよいかわからないよ。それがわからなければ、我らの国が、ちゃんと天の鏡像になっているのか、なっていないのか、まったくわからないよね。

阿礼 何を写したらよいか分からないことはありません。我らの国は、イザナキ・イザナミが別天神ことあまつかみから「修理おさめ、固め、成せ。」と命ぜられて、お生みになったものです。理想の国家像はちゃんと天に用意されていて、それに合うようにイザナキ・イザナミは国をお生みになったのです。(「通読⑪」)
 我々もイザナキ・イザナミにならって、理想の国家像を忘れないようにすれば良いのです。

皇子 天に用意されている理想の国家像って?

阿礼 それをお示しになっているのが、神世七代の神々です。

皇子 そこがわからないんだよ。神世七代の神々が示す理想の国家像を阿礼が教えてくれないか。

阿礼 良いですとも。では、順番に。


■国之常立神

阿礼 神世七代の第一代は、国之常立神(クニノトコタチの神)です。そっくり同じ常立神(トコタチの神)が二柱続けてあらわれて、その二神の違いが天と国という場所だけだということは、国は天の写しであることを意味します。
 写しであるということは、天そのものでもあるということです。
 宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)の時に、国はまだわかい状態でしたよね。それが、やがてイザナキ・イザナミの国生みによって地に国土を持った国となるのですが、その前に、国之常立神(クニノトコタチの神)として、概念の状態のわかい国が、天の写しとして高天原たかあまのはらに誕生します。
 これは、来るべき国生みの国の雛形であり理想像であり設計図であるような国です。
 その一代目は、聖なる時間の神です。我々は、死んだ者が生き返るような聖なる時間を生きることはできませんが、聖なる時間と切り離された俗なる時間のみに生きることもできません。国には聖なる時間が必要だということです。

皇子 当たり前のことを言っていないかい?

阿礼 今は当たり前ですが、これからの律令の世の中では、この当たり前が失われていく可能性があります(「通読⑯」)。国家の時間が、人々に聖なる時間を忘れさせてしまう可能性があるのです。皇子には、それをしっかり覚えておいていただきたいのです。

皇子 天命開別尊あめみことひらかすわけのみこと(=天智天皇)が持ち込まれお造りになられた漏剋ろうこくは、そんなに恐ろしいものなの?

阿礼 漏剋ろうこくが刻む国家の時間は律令国家には必要不可欠なものですが、聖なる時間を遠ざけてしまう負の側面もございます。だからこそ、律令国家を誤った方向に進ませないために、聖なる時間をいつまでも忘れないように、天渟中原瀛真人尊あまのぬなはらおきのまひとのみこと (=天武天皇)が『古事記』を文字にして記録しておくように命じられたのです。


■高天原の拡張

皇子 次は第二代だね。高天原たかあまのはらが広くなるんだよね。でも、普通に考えたら、新たに神世七代の国が作られるのだから、その分せまくなるんじゃない?

阿礼 だから、高天原たかあまのはらが拡張されたのです。

皇子 そうなんだ。

阿礼 「原」と言えば「野」でしょう。(「通読㉑」)

皇子 そうだね。野の中で他の地域と区別できる何か明瞭なものを示せる場所を原と言うのに、高天原たかあまのはらだけあって高天野がないのは変だから、高天原たかあまのはらを含む天全体が野なのだろうと思っていたよ。

阿礼 その理解は正しいと思います。天という野の中で他とは明瞭に区別できる高き尊き場所だから高天原たかあまのはらと言うのです。
 その、高天原たかあまのはらに豊雲野神(トヨクモノの神)が誕生されたということは、もとの高天原たかあまのはらがはみ出したということです。野は原を含むのですから。

皇子 高天より低い雲のある場所に高天原たかあまのはらが張り出してきたんだね。

阿礼 おっしゃるとおりです。豊雲野神(トヨクモノの神)が誕生されて、天には雲の野という、より地に近い場所が出来たのです。

皇子 雲のあるところまでが天になって、天が我々によりぐっと近づいてきたんだね。

阿礼 天が遠いままなら浮橋も架けられませんからね。

皇子 そうだね。


■泥土と砂土が土の神ではないことの意味

阿礼 そしていよいよ神世七代の第三代めです。ここから先は、二柱で一代となる神々になっていきます。
 最初は、宇比地迩神(ウヒヂニの神)つまり泥土の神と、須比智迩神(スヒチニの神)つまり砂土の神から成る一代です。
 初代で時がもたらされ、二代目で空間が用意され、三代目で土が用意されました。しかも、土の神が誕生したのではなく、泥土の神と砂土の神が二柱誕生されたのです。

皇子 土の神が誕生することと、泥土の神と砂土の神の二柱の神が誕生されることとはどう違うの?

阿礼 土の神が一神として誕生されると土がもたらされます。でも、泥土の神と砂土の神が誕生されると土以上のものがもたらされるのです。
 神世七代の後五代はどれも二柱で一代となる神々です。それらは似ていながら全くことなる二神がその関係性において新たな意味を生む関係にある神々です。(「通読㉕」)
 泥土と砂土は合わさることで、様々な働きをします。例えば、穴を掘って交互に敷き詰めれば、建築の強固な土台になります。様々な割合で混合すれば、様々な植物に適した耕作用土になります。また、焼き物の土にもなりますし、用途が様々に広がります。

皇子 土の神だって、いろいろな土の神なのだから、同じじゃないの?

阿礼 土の神はどこまでいっても土の神でしょう? 泥土の神と砂土の神の二柱の働きは土を超えるのですよ。例えば焼き物は、粘土に砂を混ぜて焼いて作りますが、出来上がったものはもう土ではないでしょう? 耕作用土だって、畑の土はそこらの土とは全然違う働きをするでしょう。
 それに、泥土は水を含んでいるから乾いた土とは違います。豊雲野神(トヨクモノの神)が降らせた雨と繫がっているのです。濡れた土の中には生き物がいます。砂土はよく見れば、小さな岩のかけらや貝がらが見つかります。泥土の神と砂土の神は生命や大地と共にあるのです。

皇子 土にだって生き物はいると思うけど、確かに泥土と砂土の方が広がりがあるね。それに、合わさって新しい物になったり生んだりするのは予想がつかない凄さがあるね。

阿礼 聖なる時から始まった神世七代の神様ですから、常にダイナミックな動きの中にあって、私たちには予測がつかないところがあるのです。

皇子 それが国の土台だってことは、国は予測通りだけじゃダメだってことだね。

阿礼 そのとおりです。カチンコチンの管理で国を運営しては、天に倣ったことになりません。

神世七代の第四代につづく。ダイアローグ<下>は第七代の記事のあとに書く予定です。)

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※タイトル写真は、Unsplashの Mak Flex 氏の作品 
ver.1.1 minor updated at 10/11/2021(冒頭の文章と図を追加して見出し写真を変更しました)
ver.2.0 major updated at 1/29/2022(タイトルの<下>を<中>に変更し、神世七代のダイアローグ三記事の二番目に位置づけ、ルビ機能を適用した)

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