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一神教と多神教の違いの本質は神の数にはない(『古事記』通読⑥)ver.1.22

※連載記事ですが、単独でも支障なくお読み頂けます。初回はこちら
※アメノミナカヌシの神の話(通読④通読⑤)とムスヒの神の話(次回通読⑦以降)とをつなぐ幕間の話題としてお楽しみください。

■『聖書』と『古事記』の創造神

創造神と言えば『聖書』の神様の専売特許のように思っている人も多いのですが、『古事記』にも創造神は存在します。

ただし、何を創造したか、が違います。

『聖書』では神は唯一なので最初に登場した神が最後の神になります。

また、神が世界を創ったので最初の神は万物の創造神として登場します。『聖書』(旧約聖書)の書き出しの一文は、「はじめに神は天と地とを創造された。」です。

『古事記』で最初にあらわれる天之御中主神(アメノミナカヌシの神)は、万物の創造神ではありません。宇宙の支配神でもありません。
そう思いたい人もいるし、現にそう説いている神職さんや宗教者の方もいらっしゃいますが、『古事記』原文にはそのようには書いてありません。

宇宙は創造されたものではなく、天も地も最初からあったのが『古事記』の神話(「天地初発」)であり、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)が創造したのは、宇宙全体ではなく「中心」です。しかも、「創造」というのは、「創造」に先立って創造の主体が存在しなければならない必然性を持った言葉であるため、厳密には、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)は、「中心」すら創造してはいないのです。「中心」は「創造という行為」によって生まれたのでは無く、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)の誕生と同時に「中心」ができたのです。

そもそも『古事記』の書かれた時代に、宇宙の創造神や支配神という発想は日本には無かったそうです。江戸時代に平田篤胤が、当時禁書だった『聖書』を読んで、日本にも最強の神があるべきだと熱望して『聖書』の神の神格を天之御中主神(アメノミナカヌシの神)に与えてしまったのが、この誤解のはじまりであるという研究があります。これについては、『異貌の古事記』(斎藤英喜・青土社・2014年)が詳しく面白いのでお薦めです。



■一神教と多神教の本質的な違いは、神の数ではない

『古事記』の創造神は、2番目と3番目に登場する産巣日神(ムスヒの神)です。『古事記』は、唯一神を想定しないので、最初の神は創造神ではないのです。
逆に言えば、最初の神が創造神ならば、万物はその神が創ったことになるので、その神話は唯一絶対神の神話になります。
多神教だとしても、2番目以降の神は最初の神に隷属することになります。2番目以降の神を、大天使だとかジン(イスラム教の神聖)だとか「神」ではない名前で呼べば、その多神教は一神教と構造上変わりがありません。

一神教か多神教かの違いは、神様の数にあるのではなく、その構造の違いにあるのです。



■「神」という文字へのフェティシズム

神が神かどうかは、その神が神と呼ばれているかどうかとは関係ありません。「神」はただの文字に過ぎません。「神」という文字そのものに、「神」と同等の神性を感じてしまうのは、「神」への信仰ではなく、「神」という文字へのフェティシズム(物神信仰)です。

日本では、古来「神」に相当する存在は様々な言葉で呼ばれていたことがわかっています。
その証拠に、『古事記』の神々は、神の文字を取っても名前として成立します。
例えば、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)や、高御産巣日神(タカミムスヒの神)は、アメノミナカヌシやタカミムスヒで意味が通じます。
これは、「ヌシ」や「ヒ」に神的な概念が含まれているからで、「神」という言葉ができる以前には、神的なものを表す多様な名称があったのです(溝口睦子の研究「記紀神話解釈の一つのこころみ」に網羅的な記載があります)。

「ヌシ」や「ヒ」などと「神」との関係は、「神」という文字の視座からは、「あたし」「私」「我が輩」「俺」「わし」「僕」と「I(アイ)」との関係のようなものになっていますが、「神」という文字が一般化する前は、「ヌシ」や「ヒ」や「チ」や「ニ」などは、それぞれ微妙にニュアンスの異なる神的存在を表していました。例えば、土橋寛氏の『日本語に探る古代信仰』(中公新書 1990年 p.147)によれば、「ヒ」と「チ」は強力で戦闘的な霊力で、「二」は温和で平和的な霊力であるといった具合です。

かつて部族によって様々な名称で呼ばれていた「神」のようなものが、「神」の名のもとに統一され固定されるのに『古事記』が一役買って、ないしは買おうとしていた可能性があります。



■多神教の「神」と一神教の「神」

様々な「神なるもの」を「神」として統一している『古事記』ですが、それゆえに日本の「神」には、多種多様な概念が内包されています。

それとは対照的に、「神」を単一に解釈し、その「神」以外を「神」から排除していったのが一神教の歴史です。「神以外の何ものをも神とせず」という態度です。

この、構造的にまったく真逆の事象に対して、同じ「神」の文字が使われているのが、日本の不幸です。
現代日本人にとって「神」がなんだかわからなってしまっているのも、多くはここに起因すると思っています。

これを解消するには、ボタンの掛け違えを直すように、歴史の糸を紐解いて、日本の「神」について整理してみることが有効です。



■かつて、GODは「神」だけではなかった

日本にキリスト教の神が入ってきたのは江戸時代ですが、当時、お隣りの中国では、「GOD」の訳語は統一されてはいませんでした。

カソリックの中国語訳聖書では「GOD」は「上帝」と訳され、プロテスタントの中国語訳聖書では、「GOD」は「神」と訳されていたていたのです。

日本に開国を迫った黒船は、プロテスタントの国であるアメリカから牧師(伝道師)を伴ってやってきたので、日本語訳の聖書も「神」になったのです(『「ゴッド」は神か上帝か』(柳生章・岩波現代文庫・2001年)に詳しい説明があります)。

もし、プロテスタントの聖書も「GOD」を「上帝」と訳していたとしたら、日本の神々と一神教の神が混同されることはなかったでしょう。神と仏のように、神と上帝が共存していたでしょうし、一神教を模した国家神道も生まれなかったかもしれません。

『古事記』に宇宙の支配神、絶対的強者の神を見てしまう人がいるのは、『古事記』にそう書かれているからなのではなく、そう読んでしまう人の心理に、キリスト教的な神への恐れや憧れがあるからなのです。それは欧米へのコンプレックスであり、「神」という文字がそのコンプレックスに神威を与えてしまっているのです。歴史が「神」という文字に呪いをかけ、その呪いにより、日本の人々は神に代わって「神」という文字を信仰するようになってしまっているのではないでしょうか。

我々が「神」という文字への偶像崇拝をやめたとき、『古事記』の「神」と『聖書』の「GOD」とに同じ「神」という文字が当てられてしまったことによる歴史の綾で、日本が偶然にかかってしまった今日までの呪い(※)は解けるでしょう。それは、日本という個の解放になるはずです。

『古事記』は「神」の文字が発する呪いとは無縁ですし、この呪いの影響を排除して読まなければ、『古事記』は読めません。「神」と言う文字の神威を廃して神々についての物語を読むとき、本当に自由な神々の物語が展開されるのだと思います。

※例えば、道州制など今日の日本のかたちの大本は、大化の改新の前後に作られています。それなのに、今の日本は初心に帰ろうとするとつい明治維新を思い浮かべてしまうのはなぜでしょう。

平田篤胤によって神道にキリスト教的なるものが持ち込まれ、それが進化して国家神道が誕生し、その帰結として敗戦があり、その後の日本があります。

戦後日本は繁栄と没落の歴史ですが、今日、危機を乗り越えるために、初心に帰ろうとする先が、幕末〜明治維新なのだとしたら、その先に待っているのは再びの悲劇であるのは論理的な帰結です。
再びの繁栄を手にするために、なぜ私たちは過去を繰り返そうとするのでしょうか。

まるで、『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』(学園祭前の1日が繰り返される)や、『涼宮ハルヒの憂鬱』「エンドレスエイト」(夏休みが繰り替えされる)のような戯画化された円環の狂騒です。

しかも、成功した過去を繰り返そうとするのは、その志の低さゆえに劣化コピー化してしまいやすいことは東京オリンピックが教えてくれています(開催後加筆:開会までのドタバタと、過去を繰り返そうとしたわけではない選手たちの輝きとの落差よ)。

GODが神になった日から、日本は、自らの手では未来を紡げない(未来は日本の外からの作用で与えられる)時の円環に閉じこめられてしまっているのではないでしょうか。

次回、ムスヒの神の話につづきます。

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ver.1.1 minor updated at 11/1/2020(『古事記』通読シリーズに加えました)
ver.1.2 minor updated at 4/1/2021(目次を追加)
ver.1.21 minor updated at 2021/7/31(項番を⑤→⑥に採番し直し)
ver.1.22minor updated at 2021/8/5(東京オリンピック開催後の一文を加筆)

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