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高天原の均衡を破る宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)(『古事記』通読⑩)ver1.24

※連載記事ですが、単独でも支障なくお読み頂けます。初回はこちら

■別天神の物語構造

『古事記』4番目の神は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)です。
この神のところで、『古事記』は、最初の場面転換をむかえます。

原文をみてみましょう。

■『古事記』原文
天地あめつち初めてあらはしし時、高天原たかあまのはらに成りませる神の名は、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)。
②次に、高御産巣日神(タカミムスヒの神)。
③次に、神産巣日神(カミムスヒの神)。
④この三柱みはしらの神は、独神ひとりがみと成り、まして*、身を隠したまひき。

⑤次に、国わかく浮けるあぶらの如くしてクラゲなすただよへる時、葦牙あしかびの如く萌えあがれる物にりて成りませる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)。
⑥次に、天之常立神(アメノトコタチの神)。
⑦この二柱ふたはしらの神もまた、独神ひとりがみと成り、まして、身を隠したまひき。

⑧上のくだり五柱いつはしらの神は、別天神ことあまつかみ

*註)多くの訳書では、「坐」を助動詞として扱い、「成りして」と訳していますが、古今の中国語では④の原文「此三柱神者、並独神成坐而、 隠身也。」の「坐」を助動詞として訳すことはできません(某国立大学で教授をしている中国文学者の友人に確認済み)。
『古事記』の「坐」の他の用例にも「ます」とあるため、国文学の慣行である「成りして」の訳を採用する必然性はありません。
著名な国文学者では、私が調べた範囲では西宮一民氏のみが、拙訳同様に「成りまして」と訳しています(西宮一民編『古事記』修訂版・おうふう・2000年)。

原文では、文章番号①~④に書かれている造化の三神の物語と、文章番号⑤~⑦に書かれている物語の二つが、もう一段大きな物語(文章番号①~⑧)の構成要素になっています。
それは、文章番号⑧にあるように、別天神ことあまつかみの物語です。

別天神ことあまつかみとは、特別な天つ神という意味です。

何が特別なのかはこの連載であきらかにしていきますが、文章番号⑨以降に書かれる国之常立神(クニノトコタチの神)からイザナキ・イザナミまでの神々は、別天神ことあまつかみではなく神世七代とされます(イザナキ・イザナミが特別な天つ神=別天神とはされていないことの意味は、神世七代の解説の時に明らかにします)。

文章番号⑨以降は、二番目の大きな物語である神世七代の物語です。

ここまで書いてきました「『古事記』通読」①~⑨は、最初の大きな物語の前半部分を一文ずつ読み進めてきたというわけです。今回から、後半部分に入ります。



■視野・視座・視点と『古事記』の世界

世界認識には、視野(何を見ているかの範囲)・視座(どこから見ているかの立ち位置)・視点(どこを見ているかの視線の先)を意識することが重要です。

これは、仮想時空間を含めた地理学のご専門だった私の大切な師の一人である故高橋潤二郎先生が強調されていたことです。視野と視点は、日常生活でも普通に使われる言葉です。視座はそれに比べるとあまり使われませんし、視点と同義に使われることもあります。これらを上記のように明確に定義付けすることにより、あらゆる対象を分析的に把握するのに役立ちます。なお、高橋先生は慶應義塾大学SFCの設計(建築的な意味でない企画やデザイン)をされた方ですが、私は慶應出身者ではありません。

仮想時空間の定義を神話にも拡大して、この見方を『古事記』読解にあてはめてみたところ、絡まった糸がほどけるように『古事記』が見えて来ました例としてスサノオ神話についての文章を以前に書いています)。

これから、第一の物語(=別天神ことあまつかみの物語)の後半部分に入っていくわけですが、視野・視座・視点を意識すると、別天神ことあまつかみの世界が大変つかみやすくなります。

後半部分の最初の文である⑤は、①と対になっています。
①と⑤は、どちらも神の誕生譚であり、 
「Aの時、Bのシチュエーション(場所/状況)で誕生した神の名はC」
という同一の構文
になっていますが、①と⑤とでは、視野・視座・視点が変化しています。

天地あめつち初めてあらはしし時、高天原たかあまのはらに成りませる神の名は、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)。

①の視野に入っているのは、天と地です。天は、より具体的な「高天原」まで意識されています。視座も視点も天にあります。


次に、⑤を見てみましょう。

⑤次に、国わかく浮けるあぶらの如くしてクラゲなすただよへる時、葦牙あしかびの如く萌えあがれる物にりて成りませる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)。

ここでは、視野に入っている「具体」が、天から地に移っています。
浮いたあぶらのようでクラゲのように漂っているというわかい国という描写は、非常に具体的なイメージになっていますし、神の誕生の様子の描写も、葦牙(あしかび=葦の若芽)という具体的な地上の水辺の植物が比喩に用いられています。
高天原の神の誕生譚でありながら、念頭にある光景が地上なのです。これは、視座が天で視点が地であることを示します。

舞台を高天原に置いたまま、いよいよ地を意識した物語が宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)から始まるのです。



■調和を破る神

それでは、いつものように、稗田阿礼と一番の読み手であったであろう当時の皇子との対話ダイアローグ調で解説を進めて行きます。

皇子 天に中心ができて、全てを生み出す源の神様が誕生して、そして神様の自覚のもとに生けるものを創造される神様が誕生したんだよね。

阿礼 はい。

皇子 そしたらさ、もうそれで十分じゃない?どうして、さらに神様が誕生してきたの?

阿礼 天之御中主神(アメノミナカヌシの神)も、高御産巣日神(タカミムスヒの神)も、神産巣日神(カミムスヒの神)も皆、高天原にお生まれになったでしょう。そこで、満ち足りてしまったら、我々はどうなります?

皇子 神様にとって我々は必要無いことになるね。でもさ、高天原は満ち足りてはいるでしょう。満ち足りているのに、それで十分じゃないってどういうこと?

阿礼 天之御中主神(アメノミナカヌシの神)は、高天原以外の存在をも予祝されたでしょう。高御産巣日神(タカミムスヒの神)と神産巣日神(カミムスヒの神)とで十分に思えるってことは、逆に、高天原以外の存在を実現するためには、高御産巣日神(タカミムスヒの神)と神産巣日神(カミムスヒの神)ではない、そのほかの神の働きが必要ということなのですよ。

皇子 どういうこと?

阿礼 高御産巣日神(タカミムスヒの神)と神産巣日神(カミムスヒの神)とで十分に思えるということは、高天原は完結しているということです。完結してしまっては、高天原以外の存在を実現できません。
他の世界を作るためには、一種の破綻が必要です。それは、十分とか満ち足りただけの世界からは生まれません。ある世界が十分であるということは、別の世界を作るには足りないということです。

皇子 それが、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)なんだね。

阿礼 おっしゃるとおりです。高御産巣日神(タカミムスヒの神)と神産巣日神(カミムスヒの神)とで高天原は満たされていて、だからこそ、その十分さを逸脱する神が誕生する必然性があったのです。


皇子 宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)は、国土がまだ固まっていなくてプカプカ浮いてクラゲのようにふらふら漂っていたときに誕生したんでしょう?

阿礼 違います。

皇子 えっ?『日本書紀』の編纂へんさんにとりかかっている役人に聞いたから間違いないはずなんだけど。

阿礼 『日本書紀』は対外向けの文書ですから、神々の話のところは、外国人が読んでも分かるように漢籍を組み合わせているのです。国土は、イザナキ・イザナミが生むわけですから、国土がまだ固まっていなくてプカプカふらふら漂っていたなんてことはありません。

皇子 イザナキ・イザナミが国生みをする前に、国になりきれないわかい国があって、プカプカふらふら漂っていたんだけど、それは国になることができなかったので、イザナキ・イザナミがしっかりした国を国生みしたんじゃないの?

阿礼 違います。国になることができなかったのは、ヒルコや淡嶋といって、それらもイザナギ・イザナミがお生みになったのです。
イザナキ・イザナミは、神世七代の最後七代目の神々
で、その誕生前には六代の神々があって、その更に二代前の神が、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)なのです。
イザナキ・イザナミが誕生される前は、地には国にもなれないような陸地すらなく、水に覆われていました。プカプカ浮いてクラゲのようにふらふら漂っているようなわかい国なんて、地にあるはずがないのですよ。

皇子 じゃあ、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)が誕生された、「国わかく浮けるあぶらの如くしてクラゲなすただよへる時」って何を言っているの?



■五つの疑問

それまで「天地」、「時」、「高天原」、「神」の四つの要素のみで構成されていた『古事記』神話に、新たな要素として「国」が加わりました。
そして、それが「天地初発の時」に次ぐ時の描写となっており、その「時」に誕生した神の名が、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)であるというのが⑤の文章です。⑤の文章はすごく視覚的で、情景が目に浮かぶようです。

でも、少し考えてみると、疑問に思う点がいくつか出てきます。例えば、

1.「国わかく~」の解釈が、いまだに『日本書紀』とに混同(国土がまだ固まっていなくてプカプカ浮いてクラゲのようにふらふら漂っていたと思われていること)が根強いのはなぜなのか?

2.国がまだ若い段階とはどういうことか?

3.国土でないはずの国が、水に浮くあぶらのようであって、クラゲのように漂うとはどういう状態なのか?

4.宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)とはどのような意味を持った神名なのか?

5.宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)は、ヒコという男性を思わせる名前だが、性別が無いはずの独神ひとりがみであることと矛盾しないのか?

といった疑問です。これらについて、次稿以降、明らかにして行きます。

ウマシアシカビヒコヂの神その2につづく

■おまけ(私家版現代語訳「造化の三神」)

別天つ神の物語の前半について、これまでまとまった現代語訳(拙訳)を書いていませんでしたので、ここにおさらいを兼ねてを載せておきます。

原文:①天地初発之時於高天原成神名天之御中主神

世界の始原。天と地とがあった。
天は、天として自らを意識し、地は、地として自らを意識し、世界は世界となった。
これが始まりの時である。

そして、広大な天に、高天原たかあまのはらという場所があった。そこに、最初の神が誕生した。
名を、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)と言った。

この神の誕生によって、世界に中心という概念があらわれ、この神が生まれたところが、天の中心となった。高天原たかあまのはらは天の中心の場所となった。

この最初の神は、生まれながらに天の中心の神である。天の中心の神であるからには、その左右、その前後、あるいは上下などに、中心に続く神が誕生しなくてはならない。中心は、単独では中心たり得ないからである。即ち、この最初の神の名は、続く神々の誕生の予祝となった。

高天原たかあまのはらが天の中心であるからには、高天原たかあまのはらに生まれ来る神々は、みな天の中心の神々である。天之御中主神は、一柱の神のみが天の中心となるような世界を選ばれなかった。これが、天之御中主神が高天原たかあまのはらに誕生されたことの意味である。

最初に誕生された神の名は、天の中心の神という意味を持っている。
天之御中主神の御名によって、やがて高天原たかあまのはらには幾多の神々が生まれ来ることが予祝されたが、生まれ来る天の中心の神々の中にあって、なお天の中心というこの神の名が意味ある名前であり続けるためには、高天原たかあまのはらの外から高天原たかあまのはらの中心を見る視線が必要である。即ち、この最初の神の名は、天の外にあって天の中心である高天原たかあまのはらと、生まれ来る高天原たかあまのはらの神々の中に天之御中主神を見る視線の誕生の予祝となった。
やがて地に生まれ来る神々とヒトの誕生の予祝である。

こうして、天之御中主神が誕生し、神々とヒトの世界が約束された。

これはまた、地に神々とヒトの世界が失われれば、天之御中主神や高天原の神々はその意味を失うことを意味している。高天原たかあまのはらの神々は、地の神々とヒトと共にあるものとして、誕生したのである。

原文:②次高御産巣日神

次に、最高の創造力の日の神である高御産巣日神(たかみむすひの神)が誕生した。

万物が、創造されゆくことになった。

原文:③次神産巣日神

次に、神ならではの創造力の日の神である神産巣日神(かみむすひの神)が誕生した。

神産巣日神は、神としての意識のもとに、高御産巣日神の最高の創造力では創造できないものを創造した。

生命が、創造されゆくことになった。

原文:④此三柱神者並独神成坐而隠身也

天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三柱の神々は、他の神々と比較することのできぬ独神ひとりがみとして誕生し、高天原に留まられる意志を持たれた。それゆえに、天から地に降り立つ神々や、地の神々や人々には、その姿を捉えることができないのだ。

ウマシアシカビヒコジの神の話はまだまだつづきます

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ver.1.11 minor updated at 2020/11/1(⑤⑧を編入したことによる項番変更)
ver.1.12 minor updated at 2021/1/16(誤植を修正。可→訶)
ver.1.13 minor updated at 2021/2/28(亦の訳出抜けを修正)
ver.1.2 minor updated at 2021/4/2(目次を追加。あわせて日本語として読みにくいところを修正しました)
ver.1.21 minor updated at 2021/7/31(項番を⑨→⑩に採番し直し)
ver.1.22 minor updated at 2021/12/15(noteのルビ機能を適用し、同時に一部わかりにくいと思われた箇所を修正しました。)
ver.1.23 minor updated at 2021/12/27(「坐」の訳についての注釈を付加し、高橋先生についての注釈を加筆しました)
ver.1.24 minor updated at 2022/7/11(「ます」が助詞となっていたのを助動詞に修正しました)

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