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国之常立神(クニのトコタチの神)が拓く世界<下>(『古事記』通読⑳ver.1.12)

※連載記事ですが、単独でも支障なくお読み頂けます。初回はこちら
※前回、国之常立神(クニのトコタチの神)が拓く世界<上>はこちら。

『古事記』の物語は「天地初発」から始まります。このことから、「天」と対になるのは「地」であることがわかります。

『古事記』に限らず、「天地開闢」の『日本書紀』や「天地創造」の『聖書』なども、「天」と「地」が対になっています。

ところが、天之常立神(アメのトコタチの神)に続いて誕生したのは、地之常立神ではありませんでした。

天之常立神(アメのトコタチの神)に続いて、国之常立神(クニのトコタチの神)が誕生したことは何を意味するのでしょうか。

今回は、そのことについて書いてみたいと思います。


■『古事記』の「国」

『古事記』の文中に「国」という文字が最初に登場するのは、「国わかくしてクラゲなす漂える時」という、『古事記』4番目の神である宇摩志阿斯可備比古遅神(ウマシアシカビヒコジの神)の誕生シーンです。

このシーンはイザナキ・イザナミの国生みの前の話(イザナキは16番目、イザナミは17番目に誕生した神)ですから、『古事記』の「国」は国土が無くても成立する概念であることがわかります。

『古事記』の「国」は、「神々が暮らすのに相応しい場所」と言う意味であり、我々が今日受け入れている近代国民国家はもちろんのこと、『日本書紀』が主張する律令国家とも異なる概念です(↓)。

そんな「国」を神名に冠した神が、国之常立神(クニのトコタチの神)です。

常立トコタチ」とは、永遠であり時間を超えた時間である「トコ」なる神々の時間が、「タチ」であること、つまり、しっかりととめどなく湧き出てくる働きを表象しています(↓)。

その働きが「国」にもたらされていることを、神名に於いて表現した存在が、国之常立神(クニのトコタチの神)です。


「「国」にもたらされている」状態が成立するためには、高天原に「国」がなくてはなりません。それは、理想の「国」であるはずです。

イザナキ・イザナミの国生みにあたって、天に「国」の完成図ないしは理想像があったと考えられることを書きました(『古事記』では、国生み前にも「国」がある(『古事記』通読⑩))。

「国わかくして」とあるとおり構想段階だった「国」の内実(完成図ないしは理想像)が明らかになっていくのが、国之常立神(クニのトコタチの神)から始まる神世七代となります。


■天の写し絵

国之常立神(クニのトコタチの神)は、天之常立神(アメのトコタチの神)の写し絵的な存在です(↓)。

だとすれば、「国」もまた「天」の写し絵的存在であると言えないでしょうか。

『聖書』には、「神は人を御自分のかたちの通りに創造された。」(『旧約聖書』創世記第1章二十七)という記述があります。それになぞらえて言うならば、『古事記』に記されているのは、「天は国を御自分のかたちの通りに創造された」ということです。

国之常立神(クニのトコタチの神)は、神世七代の第一代の神でもあります。天之常立神(アメのトコタチの神)を映し、国之常立神(クニのトコタチの神)を誕生させた鏡的事象は、ただ一神を写し絵として誕生させたのみならず、神世七代の神々すべてを誕生させたことがわかります。

そして、神世七代の七代めであるイザナキ・イザナミによる国生みは、「国」の誕生ではなく、それまでは物的存在ではなかった「国」の、いわば受肉として捉えるべきなのです(神々の子としての「国」)。

国生みの構造


■『日本書紀』が書き換えたもの

さて、神世七代というのは世代ですから、時の順序と流れの表現です。国之常立神(クニのトコタチの神)の誕生と<同時に>誕生したはずの「国」が、国之常立神(クニのトコタチの神)以降に誕生する神々によって示されていくのは、理屈が通らないようにも思えます。

私は、ここに、『古事記』の主張を見ます。

天之常立神(アメのトコタチの神)の誕生により、高天原には超時間性がもたらされました。ですから、理屈の上では同時であり世代であることは可能です。

あえて、地上の時間感覚ではありえない「同時であり世代であること」を示すことで、『古事記』は積極的に高天原の超時間性を表現しているのではないでしょうか。

鏡に自身を写した時に、鏡にはその背景も同時に写り込みます。しかしながら、最初に気付くのは自身の姿であり、視点を自身以外に移すことで、鏡に自身以外も写っていることに気付きます。「自身」を常立神(トコタチの神)に、「背景」を国に置きかえれば、同時でありながらも順序があることは、認知的にはありえます。七代という時間表現は、このようなものなのかもしれません。


私が、『古事記』は積極的に高天原の超時間性を表現しているのではないかと思った根拠は、『日本書紀』の国常立尊くにのとこたちのみことの存在です。

国常立尊くにのとこたちのみことは、『日本書紀』の第一神です。この神は、一般的には、国之常立神(クニのトコタチの神)に比定(=同一の神だと考えられること)されますが、「国」の意味が『古事記』と『日本書紀』とで異なるように、国之常立神(クニのトコタチの神)と国常立尊くにのとこたちのみことの性質も、大きく異なるものであることが、それぞれの原文を丹念に読むと明らかになります。

『日本書紀』本文には、「天地之中生一物。狀如葦牙、便化爲神。號國常立尊。」とあります。現代語に訳せば、「天地の中にある一つの物が生まれた。形は葦の芽のようであり、それはすぐに神へと変化した。国常立尊くにのとこたちのみことである。」となります。

国常立尊くにのとこたちのみことはまず物(物体)として誕生し、それが神に変化したのです。

『日本書紀』の冒頭部分は漢籍のコピペですが、コピペではない『日本書紀』本来の地の文がこの国常立尊くにのとこたちのみことの記述であることを考えれば、『日本書紀』がいかに国常立尊くにのとこたちのみことの物体性にこだわっているかがわかります。

国常立尊くにのとこたちのみことは物体性は、国之常立神(クニのトコタチの神)が神々の時間という触ることのできないものを表象した神であるのと対照的ですが、これは、『日本書紀』の「国」が、国土という存在物(物体)と不可分であることと対応しています。

そして、「国」があらわすものが、国土(物体)ありきとなることによって、常立(トコタチ)の意味が変わります。

国之常立神(クニのトコタチの神)は、天之常立神(アメのトコタチの神)に続く神であることによって、時間の神(常立神)であることが明らかなのですが、国常立尊くにのとこたちのみことは、「之」が無いことによって、神名が「国が常に立つ神」という別の字義の神になります。

国之常立神(クニのトコタチの神)の神名の核は「常立神」ですが、国常立尊くにのとこたちのみことの神名の核は「国」です。

今ここにある律令国家が永遠に存立することを宿命づけるというのが、国常立尊くにのとこたちのみことの神名の本義です。

律令国家は、国境と徴税によって成立します。つまり、実体としての国土がなくては律令国家は存在できません

『古事記』のように、国土を必須条件としない「国」の定義では、律令国家は成り立ちません。だからこそ、『日本書紀』は、国常立尊くにのとこたちのみことを徹底して物体的な存在として記述する必要があったのだと思います。

国常立尊くにのとこたちのみことは、自らも「国」も物体であると書かれることによって、本来の時の神である性格を無くし、国家の永続性を言祝ことほぐ神となりました。

『日本書紀』は、神々の時間である超時間性を「国」にもたらすはずの神を、国家の永続性を言祝ぐ神へと書き換えてしまったのです。

これは一種の呪術的な効果を狙った意図的な行為であったろうと思います。

『日本書紀』のこの書き換えは、国之常立神(クニのトコタチの神)の神性の封印を狙ったものだろうと私は考えています(陰謀論めいて聞こえるかもしれませんが、『古事記』と『日本書紀』との相剋は国文学会でもわりと普通の話題です←呉教授の研究*など)。

『通読⑰』マニアック注釈より(呉哲男「国文学/国学批判――西郷信綱の「読み」をめぐって――」(1997年)『日本文学 46巻1号』p.16)

『日本書紀』には、『古事記』にはない国家の時間の始まりの記述があります(天之常立神(アメノトコタチの神)と聖なる時間<上>(『古事記』通読⑭))。律令国家において「国」の時間は、「国家の時間」によって刻まれる必要があります。律令国家に神々の時間は不要なのです。

国家の時間の始まりを誇らしげに記述する『日本書紀』とは真逆のスタンスを取り、神々が住むのにふさわしい場所としての「国」の時間は単一の時計の時間がすべてとなるような時間ではないと主張している『古事記』を、『日本書紀』は律令国家を成立させるために封じ込める必要があったのではないでしょうか。


■視座の移動

神世七代という表現は、神世に世代を見るもので、それまで高天原にあった視座(『古事記』では、国生み前にも「国」がある(『古事記』通読⑩))が人に移っています(世代を意識するのは人の観点です)。

高天原を舞台と客席にたとえれば、別天つ神までは演者の視点で語られていた物語が、神世七代からは観客の視点で語られることになるのです。

以前にも書きました(↓)が、『古事記』は視座の移動によって物語をダイナミックに展開させていく手法を取ります。

天において天を語る視座で展開してきた別天つ神の物語から、いよいよ我々の物語として神世七代の物語が始まったのです。

ただし、視座は地上に移ったものの、物語の舞台は天が続きます。

冒頭の疑問に立ち返れば、地は高天原の外にある存在であるがゆえに、高天原の物語が続く以上、地之常立神の登場はありえないのです。

視座も視点の先も天である別天つ神の物語から、視座を地とし視点の先に天がある神世七代の物語に移行した『古事記』は、イザナキ・イザナミの降臨によって、視座も視点の先も地である物語に移行します。

神世七代の物語は、天の物語と地の物語をつなぐ中間項の役割を担っていると思われます。

豊雲野神の話に続きます

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※タイトル写真はUnsplashより(Photo by Archie Carlson on Unsplash)
ver.1.1 minor updated at 3/26/2021(「■視座の移動」が分かりにくいとの声がありましたので書き換えました)
ver.1.11 minor updated at 2021/7/31(項番を⑲→⑳に採番し直し)
ver.1.12 minor updated at 2021/12/29(ルビ機能を適用しました)



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