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宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)は、男神か(『古事記』通読⑫)ver.1.61
※連載記事ですが、単独でも支障なくお読み頂けます。連載初回はこちら。
※宇摩志阿斯訶備比古遅神についての3回目です。1回目はこちらです。
前回、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)についての5つの疑問のうち、1つめの疑問を後回しにして、2つめの疑問と3つめの疑問を解説致しました(↓)。
残るは1と4と5の3つです。今回は1と4についての解説ですが、まずは簡単な4つめからはじめます。
■ウマシアシカビヒコヂの神の記述の5つの疑問点
1.「国稚く~」の解釈が、いまだに『日本書紀』とに混同(国土がまだ固まっていなくてプカプカ浮いてクラゲのようにふらふら漂っていたと思われていること)が根強いのはなぜなのか?
2.国土でないはずの国が、水に浮くあぶらのようであって、クラゲのように漂うとはどういう状態なのか?
3.国がまだ稚い(若い)段階とはどういうことか?
4.宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)とはどのような意味を持った神名なのか?
5.宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)は、ヒコという男性を思わせる名前だが、性別が無いはずの独神であることと矛盾しないのか?
■宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)とは
宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)がどのような神であるか神名から神名からわかることは明確です。
神名を構成要素で分ければ、
宇摩志(ウマシ=素晴らしい)
+阿斯訶備(アシカビ=葦牙=葦の新芽のような)
+比古(ヒコ=男性の)
+遅(ヂ=男性の尊称の接尾語、オジのジ、オヤジのジに同じ)
+神
となります。
すなわち、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)とは、素晴らしい葦の新芽のようなヒコヂの神という名の神です。
葦の新芽というのは、勢いに溢れた生命の象徴です。
このように、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)の神名のうち、宇摩志阿斯訶備比までは形容部分ですから、ウマシアシカビヒコヂの神とはウマシアシカビなヒコヂの神であり、形容部分を外してしまえば、ヒコヂの神という、神名のコア(核)が現れます。ザ・オトコの神ですね。
これが、4番目の疑問の答えです。ここまでは、簡単なんです。
■神名理解だけでは宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)は分からない
でも、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)は、神名を理解しただけでは、それがどのような神であるかは、分からないんですね。
さらに解決すべき点が、2つあります。
解決すべき1つめは、独神の謎です。ザ・オトコの神が、なぜ、性別なんてどちらでもかまわないはずの独神とされるのかについてです。これは5番目の疑問点のことですから、いったん置いておきます。
解決すべき2つめは、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)の文脈からの理解です。
宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)、それまでの三神(造化の三神)と異なり、誕生の様子が詳しく書かれています。
つまり、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)は、神名単独ではなく、
「国稚く浮ける脂の如くしてクラゲなすただよへる時、葦牙の如く萌え騰れる物に因りて成りませる」
という誕生の様子と合わせて理解することが必要なのです。
■『古事記』原文
①天地初めてあらはしし時、高天原に成りませる神の名は、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)。
②次に、高御産巣日神(タカミムスヒの神)。
③次に、神産巣日神(カミムスヒの神)。
④この三柱の神は、独神と成り、坐まして、身を隠したまひき。
⑤次に、国稚く浮ける脂の如くしてクラゲなすただよへる時、葦牙の如く萌え騰れる物に因りて成りませる神の名は、宇摩志阿斯可備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)。
⑥次に、天之常立神(アメノトコタチの神)。
⑦この二柱の神も、独神と成り、坐まして、身を隠したまひき。
⑧上の件、五柱の神は、別天神。
ところが、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)の誕生の様子は、今に至るまで多く誤読されてきました。
この誤読は、『日本書紀』の文脈で読まれていることが原因です。。
<国稚く浮ける脂の如くしてクラゲなすただよへる時、葦牙の如く萌え騰れる物に因りて成りませる>の「時」は、
「将来神々が暮らす国をどこにしようか、まだ土地の存在しない地を、まるで浮いた脂のように海面上に想定しながらも、海月のようにその場所が定まらず決めかねていた時」
であることを、前回示しました。
ところが、『日本書紀』の文脈で読めば、それは、
「国土がまだ成り固まらないで、浮いたアブラのように、ぷかぷかと海面をクラゲのように漂っていた時」となってしまいます。
これでは、イザナキ・イザナミの国生みの記述と矛盾しますし、なぜ、そのような時に宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)が誕生したのかの必然性がありません。
必然性がないので、文書番号⑤には欠損した部分があるという説まであります。ただ、これは失われた幻の『古事記』があるという想定になります。
『古事記』そのままで論理的に読めるものを、わざわざ発見されていないものを存在すると仮定して読むことに対しては、私は反対です。
『古事記』は聖典として書かれたものとみなして読解するのが自然であり(「通読①」)、ユダヤ教のトーラーの例を出すまでもなく(トーラーとは『旧約聖書』の「モーセ五書」を指し、一字一句たりとも改変が許されていません)聖典は、そうそう容易に文章が欠落したりはしないからです。
ただし、『古事記』の成り立ちを成立以前に翻って研究する立場からは、この失われた想定という仮定は譲れないものなのかもしれません。実際、最近の国文学の研究では、歌垣から『古事記』の欠損部分を考察する論文がいくつか出ています。歌垣は、言葉の掛け合いなので、ペアにならない文言は、欠損があったものという考察になるのでしょう。
幻の原『古事記』を仮定することは、現存する『古事記』は不十分であるとみなすことですから、聖典としての『古事記』の否定になります。それはそれで一つの立場とは思いますが、私はその立場は取りません。
『古事記』冒頭のルーツが仮に歌垣であったとするならば、聖典としての『古事記』は、意図的にある部分を欠損させたと考えるべきです。それが『古事記』を、原文に忠実に読む態度だと思います。
■『日本書紀』の文脈で『古事記』を読むことが誤りである理由
話をもとに戻します。ここで、とばした疑問点1に進みます。
1.「国稚く~」の解釈が、いまだに『日本書紀』とに混同(国土がまだ固まっていなくてプカプカ浮いてクラゲのようにふらふら漂っていたと思われていること)が根強いのはなぜなのか?
そもそも、なぜ文章番号⑤の解釈に、今に至るまであたりまえのように『日本書紀』の解釈が混入してしまうのか、以下に謎解きしてみたいと思います。
結論から書いてしまえば、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)の「葦の芽」という比喩が『日本書紀』の冒頭部分にもあるために、『日本書紀』の世界観が『古事記』に入り込んで来てしまっているものと思われます。
両者を比べてみます。「葦牙(あしかび=葦の芽)」の比喩を含む部分を太字で表しておきます。まずは、『古事記』です。
【古事記】
⑤次に、国わかく浮ける脂のごとくしてクラゲなすただよへる時に、葦牙のごとく萌えあがる物によりて成りませる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)。
ちなみに「萌えあがる物」の「物」は、物質のことではありません。モノノケのモノと同じで「存在」という意味で、この存在には超自然的存在も含みます。物理的存在に限らず「在る」と感じられる存在が「モノ」です。
次が、『日本書紀』の冒頭部分です。
【日本書紀】(書き出し部分から)
古に天地未だ剖れず、陰陽分れず、混沌にして鶏子の如く、溟涬にして牙を含めり。其の清陽なる者は、薄靡きて天に為り、重濁なる者は、淹滯りて地に為るに及りて、精妙の合搏すること易く、重濁の凝竭すること難し。故、天先ず成りて地後に定まる。然して後に、神聖其の中に生れり。
故曰《いは》く、開闢る初めに、洲壌の浮漂へること、譬へば游魚の水上に浮べるが猶し。時に天地の中に一物生れり。状葦牙の如く、便ち神に化為る。国常立尊と号す。
[小学館『「新編日本古典文学全集」日本書紀①』より一部ルビ略]
この『日本書紀』の冒頭部分が漢籍からのコピペの切り貼りであることは、以前に書きました。
現代語訳を再掲します。
昔、天と地とがまだ別れず、陰と陽も分かれず、混沌としていてヒナがかえる前の鶏の卵の中身のようにはっきりしてはいなかったが、薄暗い中にきざしができていた。やがて清らかな陽の気はたなびいて天となり、重く濁った陰の気は滞って地となった。澄んであきらかなものはひとつにまとまりやすかったが、重く濁ったものが固まるのには時間がかかった。ゆえに、天がまずできて地があとからかたまった。しかるのちに神聖がその中から誕生した。
故に、開闢の初めは、国土は固まっておらず浮き漂い、例えるなら泳ぎ回る魚が水の上にあらわれているかのようであった。そのような時に、天地の中にある一つの物が生まれた。形は葦の芽のようであり、それはすぐに神と化した。國常立尊である。(以上拙訳)
⑤をこの部分と同等と捉えれば、確かに⑤は国未満の国がぷかぷか浮いている情景描写となりそうですが、もともとが複数の漢籍の貼り合わせですから無理があることは否めません。
そもそも、『日本書紀』の冒頭部分は、國常立尊の誕生譚ですが、この神に比定すべき『古事記』の神は、国之常立神(クニノトコタチの神)であって、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)の誕生譚を國常立尊の誕生譚で読み解こうということ自体かなり無理があることなのです。
■唯物的な『日本書紀』の神、物質ではない『古事記』の神
実際、「葦牙」以外の比喩は、類似的というより対比的です。例えば、『日本書紀』では、国は、游魚という能動的に動く有色の立体物(能動的かつ有色3D)にたとえられているのに対し、『古事記』の比喩は、脂にしろクラゲにしろ自らは動くことのない無色の物質であり、その姿は平面的と言えるものです(受動的かつ無色2D)。
脂を動物の脂とすると立体物になりますが、当時の天皇や貴族が書物を書くときに思う脂は、燈のための植物油であると考えるのが自然です。
クラゲも海中で見ると立体的に見えますが、当時には水族館のような施設は無く、天皇や貴族が潜ってクラゲを鑑賞していたという記録もありませんので、船上から観察したと考えるのが自然です。そのクラゲは地理的にも一年を通しての目撃されやすさからもミズクラゲである蓋然性が極めて高く、透明なクラゲが想定されていたと考えます。以上、私見ですが補足として。
また、「葦牙」という比喩自体も、『日本書紀』の葦牙は「状」の比喩であるのに対して、『古事記』の葦牙は萌え上がる様態の比喩になっています。
國常立尊が、かたちのある、つまり葦牙に似た物質が神に変化したのに対し、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)は、何か神ではない他の物質が先に誕生し、それが後から神に変化したものではありません。
このように、『日本書紀』の最初の神が唯物的存在であるのに対し、『古事記』の宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)は、物質的ではありません。
■宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)登場の意義
宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)が物質的な存在ではないことは、『古事記』の「国」のあり方とも通底します。
『日本書紀』では、地=洲壌=国の関係にあるのに対し、⑤に記されている『古事記』の「国」は、国生み前の存在なのですから、物質的存在ではなく国という概念であると捉えるべきだと前回書きました。
『日本書紀』は、律令国家の歴史書であるため、「国」は具体的に存在する国土を基盤とした存在である必要があります。領土(と領民と官僚)がなければ律令国家は存在できないからです。
一方、『古事記』は、物質的存在ではない国という概念を想定していたことになりますから、それは律令国家とは根本的に異なる発想で「国」を捉えていたことになります。
余談ですが、この『古事記』の「国」概念は、物質的な概念ではないことや、「国」が神(/仏)と不可分な存在である点で、浄土真宗などの教典である「仏説阿弥陀経」の「国」の概念と似ているような気がします。
「国」は、「国わかく浮ける脂のごとくしてクラゲなすただよへる時」という「時」の描写の一部になっています。
この「時」に、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)が誕生することに意味があるのです。
そして、その意味は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)が、ザ・オトコの神であることによって成立するものなのです。
■ザ・マン
余談ですが、ザという英語の定冠詞の後に、日本語の「オトコ」を続けたのは、英語の「マン」が、もはや「男(生物学上の男=male)」の専売特許ではなくなっているからです。
ザ・マンと言えば、WWEのスーパースター、ベッキー・リンチの異名・キャッチフレーズ(アントニオ猪木の「燃える闘魂」のようなもの)としてプロレスファンに知られています。
WWEは、世界最大のアメリカのプロレス団体で、トランプ政権で中小企業庁長官を務めた(2017-19)リンダ・マクマホン氏の夫のビンスがCEOを勤め、二人の子どももその団体の要職についているマクマホン家のファミリービジネスです。
娘のステファニー・マクマホンは、WWEの女子プロレス部門の目的は、ミソジニー(misogyny、女性蔑視)と戦うことだとリング上で宣言しています(たまたまそのシーンを見ていて震えました)。その団体でトップの位置にいたのが、”ザ・マン”ベッキー・リンチです(ベッキー・リンチは、おめでたが理由で、チャンピョンの座を大阪出身のASUKAに譲っています)。←産休を経てまたトップどころに復活しています。
本当は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)も、ザ・マンの神で良いのです(マンが男性の専売特許ではないという意味で)。
そうしてしまうと、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)が男性神である、あるいは独神であることを念頭においたプロレスファンの読者が、女性神が男性の称号を名乗っているという意味に誤解してしまうといけないので、本稿ではザ・オトコの神としています。詳しくは、次回に説明致します。
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ver.1.11 minor updated at 9/22/2020(末尾のリンク先に「その4」を追加)
ver.1.2 minor updated at 9/22/2020(末尾に「■ザ・オトコとザ・マン」の節を追加)
ver.1.3 minor updated at 9/22/2020(「■『日本書紀』の文脈で読むことが誤りである理由」以降は、疑問3への答えだったことを明示)
ver.1.31 minor updated at 2020/11/1(通読⑤と⑧を編入したことによる項番変更)
ver.1.32 minor updated at 2021/1/16(誤植を修正。可→訶)
ver.1.4 minor updated at 2021/4/2(目次を追加)
ver.1.5 minor updated at 2021/4/3(タイトルを変更)
ver.1.51 minor updated at 2021/7/31(通読0⃣を通読①に採番し直したことにより項番を⑪→⑫に採番し直し)
ver.1.6 minor updated at 2021/11/13(ルビ化および説明不足を補いました)
ver.1.61 minor updated at 2021/12/26(疑問点番号の1と3が逆だったのを修正しました)
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