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トレンチコートを着物のように着る

 そもそもトレンチコート、着物とは?

 トレンチコートは元々第一次世界対戦で開発された軍服である。それが現在おしゃれなコートとしての地位を獲得して好んで着られている。
 一方着物は、色々な物があるものの、現在では成人式などの正装として着られている。
 では、そのトレンチコートをおしゃれで正装のように普段から着ることができれば素晴らしいとは思わないだろうか。そこには独創性があると言える。
 なぜなら、この独創性を達成するにはトレンチコートと着物を着こなさないと達成不能であるからである。


 現代、着物を持っている人は何人いるだろうか。おそらく年々減少して行っているに違いない。
 幸い筆者は着物を自分の着物を持ち、一人で着付けできるまで着ている。
 また、数あるトレンチコートを吟味しシルク混のトレンチコートを選び好んで着ている。正絹ほどではないが絹擦れの音がするぐらいである。
 意外とトレンチコートと着物は粋な構造やポケットの代わりの収納や帯の代わりにベルトがあるなど共通点があるものがあった。
 この気付きが、トレンチコートを着物のように着るという独創性の一歩でもあった。

 他にも服装以外で独創性を出せる場面はいくらでもある。
 しかし、独創性とは危ういもので一歩踏み外せば変人になりえる。
 けれども昔の貴族的な意識を持てば大きく踏み外すことはないだろう。
 貴族的意識と言えば大仰だが非大衆と言えば伝わるだろうか。
 非大衆は
 「名乗り」
 「責任(と意思)」
 「独自性」である
 この3つを守れば独創性において道を大きく踏み外さない。
 これらを守れば芯のある独創性ものとして認識され評価されるだろう。
 なぜなら、名乗りと責任(流行りではなく自分の強い意思で着ているということを公で認められる)を遂行することは容易ではないからだ。

 逆に残酷な大衆の姿を提示するとするのであれば、ツイッターやSNSの誹謗中傷などがいい例だろう。
 大衆は
 「無名で」
 「無責任(に加え、なんとなくノリで)」
 「付和雷同で(みんなと同じ、独自性がない)」
 である。
 昨今の誹謗中傷は、匿名で無責任にみんなでむやみに同調する者たち、大衆が人を攻撃している状態と言える。
 逆に実名で発言に責任を持ち、自分の考えのある誹謗中傷はもはや、いわゆる誹謗中傷とは言いにくく、また同時に発言の主を大衆とは呼べないだろう。

 筆者はそのような大衆化した人生を避け、非大衆的な人生で独創的な道を歩み切り開きたいと考えている。
 その一つとして私はトレンチコートを着物のように着るのである。



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現実は本当に仮想現実ではないと言えるのか。

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