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名が変わる、あるいは襲名のこと。ヨハネ

落語家で、テレビなどでも人気者だった桂三枝が「文枝」を襲名することに対し、立川談志は反対していた、という記事をネットで見かけた。

「お前は『三枝』の落語をつくって三枝の名前を十分大きくしたじゃないか」「古いもの(古典落語)を新しいもの(創作落語)にするためにやってきたのに、古い名前(文枝)に戻るのはおかしいじゃないか」と談志は言い、三枝はその言っていることの意味がよく分かったという。

ここで私が反射的に想起したのは、文楽の義太夫で、この4月に、豊竹若太夫(第11代)の名を57年ぶりに襲名した元・豊竹英太夫師匠のことだ(ちなみに若太夫は、江戸時代以来、文楽における最高位)。

7年前(1917年)、師匠が「呂太夫」という名を襲名した際、無知な🤣私は、「風呂の呂なんて、けったいな名前を襲名しはったもんやなー」と心密かに思っていた。
それとも口に次ぐ口、というような意味(口の芸がめちゃくちゃ上手い)があるのかと想像したりしていた。

しかし、文枝襲名に関する記事を読んで、明瞭に「そうだ!」と分かった。
誰かが言っていたが、「“ろ”の次は”わ”でっせ」だったのだ。

呂太夫とは、若太夫への準備期間の名前だったのだ!

呂太夫のまま、生涯を終えてしまったら洒落にならない、若太夫になるべく運命づけられた、そういう名前だったのである(たぶんきっと)。

そういうことを「ダジャレ」に託すとは、芸人さんたちって粋(いき)な人たちだっせ。

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聖書にも名前が変わるという話は例がたくさんある。
アブラム⇒アブラハム然り、ヤコブ⇒イスラエル然り、新約聖書だとシモン⇒ペテロ、サウロ⇒パウロ然り。

名の変更は「実質」の変更を伴っていることが聖書には見て取られる。聖書では、その時、「神のタッチ」によってそうなったのである。若太夫師匠の名の変更も、そういうことでありますように!

また名を継ぐこともよくある。
聖書の人物の名にあやかった命名も、実は多い。男性で有名な人物は、エイブラハム(アブラハムのこと)・リンカーン、アイザック(イサクのこと)・ニュートン、また映画「炎のランナー」でエリック・リデルの好敵手となった俊才でストイックな男はエイブラハムズであった。

名を継ぐ、とは、先のその名の人物の特質(というか属性😁)に預かりたい、という気持ちなのだろう。

プロテスタントでは「クリスチャンネーム」をつける習慣はほとんどないが、自分で勝手につけても良い世界のようだ。

私は自分がつけるなら「ヨハネ」がいいな。
同時代の信仰の仲間の生き様を見定めて、神がそこにどうのように働かれていたかの大きな視点から、歴史を書き残しておきたいから。


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