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キリスト教社会主義の系譜で郡山市長が善政を全う

政治の腐敗の問題が取り沙汰される昨今だが、1998年のクリスチャン新聞を開いていると、青木久さんという76歳の人が、福島県郡山市長として2期、理想を貫く市政を全うした後、念願の洗礼を受けたという記事が目に飛び込んできた(7月19日号)。

青木さんは市内紡績会社の組合指導者だったが、「保守系議員らの醜い権力争いに憤激、「公共の福祉に活眼を開け」と訴えて民社党から(福島)県議会議員選に立候補」。初当選は36歳だった。

勤めていた会社の社長が熱心なクリスチャンで、かつて首相(1947)を勤めた片山哲(1887-1978年)、衆議院議長を勤めた松岡駒吉(1888-1954年)らクリスチャン政治家を紹介され、「一言一言に教えられることが多かった」。

同じくクリスチャンで、民社党所属の竹本孫一衆院議員(1906-2002年)から、「政治家は哲学と宗教を持ちなさい。民主政治の最高の理想は福祉の建設だ」と諭された言葉が「青木さんの政治哲学の柱となった」。

「欲得でなはなく高い理想を掲げるそうしたクリスチャン政治家たち」からの感化が青木さんに「心のなかで神を信じる気持ち」を与えた。

青木さんは、政治家の陥りがちな誘惑を、「政治家は哲学・宗教をもたなければ、選挙の票数だけで動くようになる。いかに次の選挙に勝つかがすべてで、そのための金集めに走り、公共事業に絡んで汚職に手を染める」と語り、「特に自治体の長の場合はそういう誘惑は絶えません」と明かす。

それに関連してか、85年からの1度目の市政の際は、「青木市政に反発する野党多数から」追い落としを受け、「政策の対立」から7回告訴されたがすべて勝った。「青木さんの身辺からはついに一度として“ホコリ”はたたなかった」のであるとクリスチャン新聞は記しているわけである。「正しいと思ったことを実行しようとすれば抵抗を受け、並大抵ではない。しかし、神を信じて間違いない道を堂々と歩めば恐れることはない」と信じていたという。

もっと若い頃に洗礼を考えたこともあったが、「分刻みの多忙の中で機を逸した。時折自分で聖書を読み、いかなる境遇にあってもそこから学ぶことを教えられた」。
洗礼を授けた郡山細沼教会(日本基督教団)の武藤清牧師は「三十年来の知友で、政策に助言を受けたり、礼拝メッセージから教えられたりもしてきた」。

初当選の際、市内全教会の牧師・司祭を招き、市政について意見を聞いた。一人の宣教師が「幻(ビジョン)を持って下さい。混迷する政治の中で幻のない民は滅びます」と言ったのが印象に残っているという。
2期目の選挙運動の第一声は「山の中の一軒家に住む人も、町の真ん中に住む人も同じ郡山市民として大切にします」と述べた。実際、「それまで顧みられなかった辺地にまで手厚い施策を実行した」という。

退任4年でようやく洗礼に預かり得た青木さんは、「これまで心の支えだった神への信仰を、ようやく落ち着ついて実行できるようになりました」と「控えめに話す」とクリスチャン新聞は記している。

私がこれらの記事を読んで感想を抱くのは、いやいや青木さん、あなたこそ市長という大事な職務をもって市民に仕え、それこそ己の信じる父なる神への信仰の実践だったではありませんか、ということ。
なぜわざわざ青木さんが「控えめ」に、これから信仰を実行すると言わなけれればならないのか、これを書いた当時の記者と感覚の違いを感じる。

また、戦前からの日本のクリスチャンの、社会主義系政治家としての取り組みは実質的にあったのだし、また現憲法下、初の総理大臣となった片山哲がクリスチャンであることを、GHQのマッカーサーが歓迎する意の声明を出したという時流のなか、キリスト教界が戦後、より政治に関与していく路線も有り得たと思う。
しかし実際はそうならなかったことが佳いことと受け止められる向きがある一方、現在の統一協会などの国政、地方政治における跋扈が明らかになっている実情を見るにつけ、青木さんが心に刻んだように、まことの神を畏れる者が正しい信仰心を持ちつつ政治の仕事に携わることももっと必要だったのではないかと思われてならないのである。

クリスチャン新聞1998年7月19日号1面トップ

片山哲 キリスト教社会主義を実践した代表的人物の一人。終戦後、新憲法下初の総理大臣となった。国家公務員法の制定、内務省の解体、警察制度の改革、労働省の設置、失業保険の創設、封建的家族制度の廃止を目標とした改正民法の制定、刑法改正などを実現した。一方、政権運営も政争も不得手な片山は「グズ哲」ともあだ名された。政権は8か月の短命に終わった。日本社会党初代委員長など。日基教団富士見町教会員。

松岡駒吉 戦前日本の労働運動の代表的存在。友愛会メンバー、ゼンセン同盟会長、世界連邦日本国会委員会初代会長。国際労働機関(ILO)設立時には日本使節団の労働者側代表委員。
反共主義者で、1923年10月には総同盟内部における左派台頭に反発して主事兼会計を辞任するが、翌1924年6月には中央争議部長として早くも復帰。1925年には中央委員として、関東地方評議会等の左派組合の除名に際し主導的役割を担う。一方、野田醤油(現・キッコーマン)争議(1927~28年)など多数の争議を指導、消費組合等の事業活動も推進した。
1926年には社会民衆党の設立に参画し中央委員に。1932年総同盟会長に就任。右派労働組合の大同団結を図るべく、1936年全日本労働総同盟を結成し、引き続き会長を務めた。
満州事変以降、労働運動存続を図るため、ストライキ撲滅等の銃後三大運動決議など、時流への迎合を余儀なくされた。その後官製の産業報国運動には強く反対。官憲の圧迫下、総同盟を解散する。
1942年の翼賛選挙に非推薦で立候補したが落選。
日本基督教団富士見町教会員。


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