中世史に興味がなくても『喧嘩両成敗の誕生』は面白く読めると思う

ITに限らず、エンジニアと話していると人文系の学問が好きではない、何が面白いのか分からないという声を聞く。「暗記科目だから」という意見を聞くが、高校レベルだと化学のほうが暗記科目だと思っている私としては納得できていない。

試験勉強という観点だと暗記になりがちだが、(文献資料のある)歴史は時代どうしの繋がりや、現代との繋がりを考えると途端に面白くなるというのが持論だ。『喧嘩両成敗の誕生』は意外な角度から現代と中世の繋がりを見せてくれるという点で、歴史の面白さの詰まった一冊だと思う。

喧嘩両成敗という言葉を聞いたことがない日本人はいないだろう。幼い頃、相手からやられてもこちらがやり返したらなぜか「喧嘩両成敗」ということになって理不尽を感じた経験がある人もいるかもしれない。私はある。

この喧嘩両成敗という語は日本史上において「私的紛争をしたら両方処刑」というだいぶ尖った法律が元なのだが、歴史上では今川氏親うじちかの制定した分国法、今川かな目録が最初の明確な登場例だという。

一、喧嘩におよぶともがら、理非を論ぜず、両方ともに死罪に行ふべきなり

今川かな目録 第八条

「喧嘩」すれば「理非」を論ぜず、両方ともに死罪となるこの条文は喧嘩両成敗の特徴を端的に表している。

著者によると、こういった法は海外にはなく日本特有なのだという。この特異な法律がどのように発生したのか、というのを追っていくのが本書の流れだ。

まず第1章では室町人が「なぜ」喧嘩に及んだのかということを追っていくのだが、まぁ出てくる例が世紀末である。詳しくは本書を読んでほしい。この時代の人間は「笑われる」ことを極度に屈辱と感じており、笑われたことを原因とする刃傷沙汰に事欠かない。そういった感情は侍身分だけのものではなく、僧侶や農民であっても笑われたことを起因に暴力に及んでいた。世紀末すぎる。

赤の他人相手だけではなく、主君であっても自らの誇りや自尊心を守るためなら刃を向ける。そういう時代だったからこそ「下剋上」が生まれたのだと説かれると、妙に納得してしまう。

第2章では、暴力をカジュアルに行使する室町人がどのように暴力を行使し、公権力はいかに対応していったかという点が解説される。当時の人々は酩酊状態や特殊な事情でもなければその場でキレることは少なく、後からやり返すのが基本だったという。宣教師ヴァリニャーノは、そんな日本人の陰湿さをこう書いている。

彼等は、感情を表すことにはなはだ慎み深く、胸中に抱く感情を外部に示さず、憤怒の情を抑制しているので、怒りを発することは稀である。(中略)互いにはなはだ残忍な敵であっても、相互に明るい表情をもって、慣習となっている儀礼を絶対に放棄しない。(中略)胸中を深く隠蔽していて、表面上は儀礼的で鄭重な態度を示すが、時節が到来して自分の勝利となる日を待ちながら堪え忍ぶのである。

現代に生きる我々でも、この記述には心当たりがあるのではないだろうか。令和の世においてもギスギスした組織はこういうメンタリティになりがちである。ざっくり言うと、そのギスギスの非常にエグいバージョンが室町時代である。この時代の大名は発狂しがちだったが、いつ家臣の自尊心を損ねて命を狙われるか分からないストレスから心を病んでいったのだろうと著者は推測している。さもありなん、という感じだ。むしろ病まないほうがおかしいとさえ思える。

そんな時代において復讐は非常によく行われていたが、鎌倉時代に制定された御成敗式目では敵討ちを禁止している。とはいえ世間の実情としては殺人を正当化するために「親の敵」という嘘をつく者が多かったらしく、それくらい敵を討つことは心情的には正当化されていたらしい。そんな流れを受けて室町幕府でも復讐は黙認されていた。

また、復讐の一例として切腹も使われていた。室町人は現代からは想像もつかないほど個人の生命を軽視しており、遺恨の表明として自害することが度々あった。伊達稙宗たねむねの制定した分国法「塵芥集じんかいしゅう」では

一、自害の事、題目を申し置き死に候はゞ、遺言の敵、成敗を加ふべきなり

とあり、自害の理由を書き残したならば、その遺言の敵には伊達家が当人に代わって成敗を加えるというルールまでできている。

ではなぜ、室町人は個人の生命を粗末に扱っていたのだろうか。それを解説するのが3章だ。

室町時代においては、追われる者が主君でもない家の武家屋敷に逃げ込んで保護をたのむ例が多々あったという。家の主は願いを聞いて保護することが多く、有力者であれば天皇が指示しても引っ張り出せないレベルであった。

なぜこんなことが起こっているかというと、中世社会においては「たのむ(頼む)」という言葉が現代語よりも強く、「主人と仰ぐ」「相手の支配下に属する」という意味を持っていたという。隷属の対価として身の安堵を得る、という理屈だ。

個人の生命が粗末な代わりに、室町人は集団への帰属意識や結束が非常に強かった。個人で生きていくのが難しい時代であり、生き抜くためには徒党を組むことが大事だったのだ。その代償として、自分とは直接関係のない紛争に巻き込まれるリスクもあった。

個人で生きていくのが難しい時代の理由であるが、この時代は世界的にも異常気象が多かったというのが一つの理由である。異常気象で不作となる→略奪や領土紛争が増える→集団で結束して何とか生き抜くというわけだ。

そういう世界であるから、「流罪」というのは集団からの保護を失う処罰であり、実質的な死刑であった。というのを豊富な史料を用いて説明するのが4章だ。歴史が好きなら非常に面白い章なのだが、テクニカルな説明が多いので少しとっつきにくい部分はありそうだ。

ここまでだいたい100ページにわたって「喧嘩両成敗」を理解するための前提知識が説明される。5章からようやく喧嘩両成敗の説明に入っていくのだが、かなりテクニカルになるので詳細はちゃんと読んでほしい。

かいつまんで書くと、喧嘩両成敗法の根底にあるのは納得感である。「敵討ちは許容されるべき」という価値観がある一方で「殺人はダメでしょ」という価値観がある。この二つを良い感じに満たす落とし所の一つが喧嘩両成敗法であった。

何でそこが落とし所になるのか。中世社会においても「復讐はいいけど、損害に釣り合いが取れたらやめるべきだよね」という社会通念は存在していたという。紛争解決の仲介人を立てる中人制、儀礼的な復讐として人を送る解死人げしにん制が考案されたが、紛争当事者の衡平感覚をうまく満たせずに廃れてしまった。

逆に言えば納得感があればくじ引きや湯起請(熱湯に手を入れて、やけどをしたら神の加護がないので有罪という裁判手法)でも良かったという点も述べられている。

つまり、喧嘩両成敗法というのは中世人の衡平感覚をベースにしてボトムアップに生まれてきたものであり、大名や幕府が法治主義の徹底を図ろうとしてトップダウンに作られたものではないのである。

実際に江戸時代においては裁判が中心となった一方、赤穂事件のように自力救済を求める心は人々の中に存在した。復讐心の制御というのは非常に難しく、だからこそ小さな紛争解決のレベルでは今もなお日本人のなかには「喧嘩両成敗」的な思考が残っているのである。

中世人の一見すると非常識に見える行動様式が現代に繋がっている——そう思うと、歴史も暗記ではなく一つのつながりとして見えてくるのではないだろうか。

この「つながり」が面白く感じた「歴史嫌い」各位にはNHKのさかのぼり日本史シリーズがオススメだ。割とセール対象になるので是非。


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