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GENJI*REDISCOVERED       今日の源氏物語  『光る君へ』23

越前国府
証人の村人…連れて周明やって来る。 人殺しを見たと申し出て「ジュが殺した。」と言えと脅された。と。越前介・源光雅が留め立てするが、為時の問いに「このお方です。」と。
三国若麻呂を殺めたのは「武生の商人ハヤナリ」と。
で、タイトル。
武生のハヤナリは、「宋と商いがしたかっただけ。殺すつもりはなかった。」と。通事三国は立場を利用して、紹介仲介で荒稼ぎしようとしての成り行き。揉み合いで転けて打ち所悪く…という事故だった。
為時、介に「そなたも商いで懐こやしたかったのか?」と。-充分にそう思わせる様に造形されている配役…。だが、「来られたばかりでお分かりになってない。」と。宋人の財宝の売買=密輸のこと、地方役人と国司為時へとの態度振る舞いの違いを訴える。
「このままでは、宋人につけこまれ都にまで及ぶリスク」回避に「この機会にジュを追い出さなければ。」との ( 引っ越させ…役人 大野国勝と…) 画策。為時は、介の考えも認めつつ、ジュレンソンは放免に。
三国が居なくなったため、為時、両国語話せる周明に通事を命じる。
なるほど。ストーリ展開のお見事さ…また、帽子いくつか被っておかなきゃ。
ジュレンソンが礼に来て。
あなたを信じて真のことをと話して曰く「越前を足掛かりに朝廷と交易の道筋をつける命を受けている。」「任務遂行まで帰れない。」と。
「あなたが頼り。」とまで。
やはり。宋の朝廷の命で来ていた。
場面変わって、まひろ「あなたは宋人なの、日本人なの。」に「宋人だ。」と答える周明。実は、津島産まれ。12歳で海に棄てられて、宋の船に拾われて、かの国で牛馬ごとく働かされた。そこから逃げて医師の見習いに。という来し方。
「賢かったのね。」とまひろ。 -医術のこと、為時の快復を目の当たりにしたまひろには、それを修めた事=「賢さ」が評価対象。(安易に恋には持ってかないぞ…って「まひろは恋愛体質ではない…」オサエと、大石さんなのでしょう。)
憧れも、(周明でなく…)宋の国。「宋の国は懐が深い国では。」「宋の話し聞かせてほしい。」「白楽天は…?珍しいもの読みたい。」とまひろ。
「俺のことは信じるな。」と宋語で ( 後日、ちゃんと言ってたよあの時。とするための布石、)言ったあと、「宋の言葉を知りたいか」と周明。
宋語での「名乗り」を真似て返したまひろに、「おまえこそ賢い。」と、語学研修の日々が始まる。
だんだん話せるように上達のまひろ。季節も進み、火鉢にあたる二人。( は、二人の 接近具合を見せるため…でしょう。) 今回の用例は「外は寒い。風邪をひく。」と。「風邪をひいたら鍼でなおして。」というまひろの手をとって!キター…「指の間に鍼を刺すと熱がさがる。」と周明。「いたそう。」とまひろ。「だから風邪はひくな。」と周明。 … 純愛 を夢見る 視聴者には タマラナイシーン…かと思います。
紫式部は『源氏物語』で「風邪」を扱っています。風邪をひいたから…と「ひる(蒜)」を食べて籠っている女の許に来た男が、その匂い=今で言うと「キスしようとしたらニンニク臭くて…!いくら風邪に効くからって」という挿入話があります。その女は、唐の国からの医食同源、蒜での風邪の対処を知っている教養ある育ち。かつ、実践する?って!並みの女じゃない人物。…紫式部自身 ( の 体験実話) か…という学者さんもあります。
後日。雪が降ってきて、まひろ。「ここにかく ひののすぎむら うずむゆき … 」と書く紙に雪。
一方、都。道長も掌に雪を見る。まひろは、都を懐かしみ、道長はまひろを想っている。のでしょう。
行成が献じた「古今集」を開く帝。「そなたが写した古今集…。中宮の好きな歌は…「ゆめじにも、つゆやおくらん よもすがら …」」と。
「お二人のお美しさを生涯忘れません。」と言う行成に「髙階に居る中宮に密かに会いたい…。」と。「出家されたるからには…。」と諌めるが「心が苦しくなった。」と報告した道長に、「頭をひやせ。帝の術中にはまってはならぬ。」と叱られる行成。
「行成のやさしさを利用しようとされている。」「蔵人頭として、もっと冷静であてほしい。」と。そう、後々(史実…記録に残る-定子への道長の仕打ち…に対しての行成の動き、行成像がちゃんとあるから。)
帝には、義子についで元子も入内。が「お会いにさえならないと聞こえる。「語らいの場」もうけられれば、」と倫子。「(生母である)女院も居られるここなら帝もお出ましし易い。」と、元子と管弦の会。
元子の父顕光の大袈裟な礼をカワす道長。
途中で笛をやめる帝。
女院は「中宮への思い熱病のようねみたいね。」「私は愛でられたこと無いから、」「あのように求めあう心、解らない。」と。恋愛感情というものを弟に質問する女院。
「妻は二人おりますが、心では違う女を求めております。」と「(名とかは隠して)まひろ」の存在を明かす道長!「やっぱり。」って女院に「もう終わった話。」と。「道長を捨てるって!どんな女なの!」という驚きと、そこにある恋愛という事の「どんなふうに良いの?」と自身に無い何なの…を問う女院。
高階屋敷、後にまとめられて『枕草子』となる清少納言が書いた「うつくしきもの」(ヒヨコのところ)読む定子。清少納言に「姿が見えるようね。さすがた。」「そなたの書いた日々のこの楽しみが無ければ私は死んでいたであろう。少納言ありがとう。」
「この(お腹の)子がこまで育ったのは、そなたのおかげ。」「(清少納言を召した)母上にも礼を言わねば。」と。登華殿出仕の初日「目が眩むほど。」「なつかしいの。」と二人の会話。「あの頃のことがソナタの中でいきいきと残っておるなら、私も嬉しい。」という定子。
現在の研究成果で、ほぼ定説となってきた…?判ってきた…『枕草子』の成立やその書かれ様を包含しての、当時の「それ」のはじめの存在の仕方の ( 推定)再現。お見事。
……義務教育で「古典」として習った頃には、中関白家や定子の悲劇も、清少納言の苦労腐心も全く知らず、(おきらくに)「おかし」い事リスト的に読まされていた。まだまだ解明出来ていない『枕草子』「一説」であると気をつけてなきゃ…ながら、(推定)再現映像、惹き付けられるの…仕方ないね。 
翌日、内親王誕生。
定子に「会って労いたい。」帝。「絹をたくさん送ってやれ。」しか出来ない。
東宮、居貞親王は、帝より4歳上。道長の甥 ( 女院の上の姉 が産んだ冷泉天皇の皇子 )から ( 定子が産んだ 帝の子への贈り物 )「叔父上に任せる。」と道長に。「尼が子をうむとは。」と言いながら。
の裏に「晴明」! ここにも召されているか!
居貞東宮「姫御子で良かった。ありがとう。」と晴明に。(まじない…やってもらってたのか?!) しかし、その予言は「帝に皇子、それは中宮のお子。」の見立。(史実だからね…。) 居貞親王が帝(三条天皇)となるのは、まだまだ先…。
長徳三年。となる。
為時父娘、「宣隆来ないね。「来る」と言ってたけど」と。
為時、まひろの宋の言葉の勉強に「おまえは覚えがよいから。」褒めつつ、自分が「官職得られず、婿をとれず。来てすまないと思っておる。」
「周明は好い男だ。」と、周明との仲に反対ではない。と。「そんな関係じゃない。」とまひろ。「それならそれでよい。好きにせよ。」と、翌日から⇒国内巡察に出る。
浜辺。まひろと周明の二人。
ツガイで飛ぶ鴎見ながら、「ふうふうはいおー。」と周明。まひろ尋ねて
「周明に、妻はいないの?」と。「帰りたい人は帰ればいいのに。来ている人たち、身とりとか恋しくないかしら。待ってる人もあるだろうし。」と。「帰ってほしいのか?」と周明。「ジュ様が帰ると言わないと(帰れない)。」に、
「なぜあの人はあそこまでかたくななのか。」と漏らすまひろ。
「あの人」って?と周明、まひろが「左大臣」と知り合いである事を知る。
その話し中の二人を、都からやって来た宣隆が見ていて。
……ドラマ始まりの回で、子供のまひろを「世話になった」と一緒に居たサブロー道長に言って、馬に乗せ連れ帰ったののリフレイン。
去る周明の「ザイヂェン」に ( この二人…どうなってる?!) ええっ…て顔の 宣隆。
越前で、また成長した…まひろの事が気になり=「わからなすぎる。」宣隆。
「そのプンとした顔が見たかった。」とか 次第に近しく…。 この宣隆の(親友の娘…、才覚ある面白い奴、女性としての魅力、ない交ぜの感情による…) 駆引き- 佐々木蔵之介だから成せる役…との評判、そうでしょうね。
宣隆が持って来た巻物『玄怪録』に「都の香り。」を嗅いで本当に嬉しそうなまひろ。
二人の食事。越前のウニ-今朝捕れたもの。まひろ匙で割る。もう「越前の女みたいに」慣れた手つき。
「会うたびにおまえには驚かせされる。」「( 宣隆自身も、) 人生おちついた…と思っていたが、おまえと居ると、未來が見える。まだまだ生きたいと思わせる。」と。すごい プロポーズの言葉。本当なんだろうと納得させる 筋運び、さすが「大石本」。
まだ、わかってない、まひろ。
琵琶演奏。見つめる宣隆。
一方、松原客館。周明、ジュレンソンにまひろが左大臣と知り合いと伝え、手紙を書かせると。売り込み。「日本との商いの道開けば。願いを叶えてやる。」と約束取り付ける。
朝廷には「モノモウデ」と嘘を言って越前に来ている宣隆。帰りがけに、まひろに、「あいつと宋になど行くなよ。」「都に戻ってこい。」「わしの妻になれ。」と。
ここでのBGM、ポコボコポン…がSNSで話題に。
という今回でした。
「雲丹の殻をスプーンで割って食べてる!」もSNSで話題に。日本に「匙」があって、使われて来ていたこと、知らない「スプーン(はフォークの友)」世代多い様です。奈良時代『正倉院』のスプーン ( トップ「画像」、南倉にはこんな束でスプーンの在庫アリ…。) は、ちょっと雲丹には大きいかと。でも、平安時代も「匙」はあって、使われていました。ほら『枕草子』の「あてなるもの」の「氷」も箸では食べられないでしょう。

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