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ぼくのなかの日本(第45回、死を語る時)

死を語る時

ダイアナ妃の死を聞いたのは、名古屋郊外の市営住宅の部屋で、大人たちと一緒にマージャンをしていたときだった。

あの日は、両親の友人が数人遊びに来て、昼間にマージャン、夜に食事会をする予定だった。大人のゲームに混ぜてもらえた中学生のぼくは、戦術も戦略もなく、ただ運任せに手牌を切っていると、別室でテレビを見ていた見知らぬおばさんが、素っ頓狂な声を上げた。

「えっ?ダイアナが死んだって?みんな、ダイアナが死んだって!今、速報出てるよ!」

大人たちはあっという間に、マージャン卓代わりのこたつからいなくなった。かと思うと、1分もしないうちに戻ってきて、「まさかね」「かわいそうに」「まだ若いのに」と口々に言いながら、チー、ポン、カンの世界に再び没頭した。しかし、大人のようにすぐに切り替えられないぼくは、テレビを見に動き出すことが出来ず、彼らが戻ってきても、数日前にテレビで見たダイアナ妃のことが頭が占領し、もはやマージャンのできる精神状態ではなかった。

テレビでやっていたのは、ダイアナ妃と彼女を追うパパラッチに関する海外のドキュメンタリーだった。あの日は適当にテレビのチャンネルをまわしているうちに、たまたまダイアナ妃の顔を目にしただけだが、そのシーンの彼女は、ホテルの窓のカーテンの隙間から顔を出し、泣きながらカメラをまっすぐ向けてくるパパラッチになにかを訴えかけていた。日本語のナレーションは言う、「この数日前、父親をなくしたばかりのダイアナは、なおもしつこくつきまとうパパラッチに、お願いだから一人にさせてと、涙ながらに訴えたのだ」。

王子様やお姫様など、子供の頃から全く興味がなかったぼくだが、このときだけは可能であれば、ダイアナ妃の味方になりたいと思った。『ドラえもん』でのび太が芸能記者から人気アイドルを助け出し、一時の平穏を送ってあげたのと同じように、ぼくもパパラッチのカメラを奪い取り、テレビのなかで泣き崩れるきれいなお姉さんを一瞬でもいいから、守ってあげたいと思った。

そのような気持ちになったのは、ひとえにパパラッチのカメラのおかげだという強烈な矛盾があることに、少年時代のぼくは気づかなかった。ぼくはただテレビの向こうに思いを馳せ、手が届くかどうか想像したことさえない存在が、一気に身近に感じられるような気になり、なにもできない自分がもどかしくなり、そしてそのもどかしさとの折り合いをつけられないでいるうちに、ダイアナ妃が亡くなったのである。

マージャン卓から離れたぼくは、自分の感情に戸惑っていた。人が死んだから悲しみを感じたのはもちろんだが、それと同時に、ぼくは7才のとある朝を思い出した。母方のおばあちゃんが危篤との知らせで、両親が病院に駆けつけたため、ぼくは親戚のおじさんの家に一晩泊まった。その次の日の朝、おばさんが一睡もしていない赤い目で、ぼくに言った。

「おばあちゃんは、昨夜亡くなったわ。」

自分がどんな反応をしたのかは覚えていないが、泣かなかったのは確かだ。ただ覚えているのは、その後、おばあちゃんのことを話題にする度に、あんなに身近にいたおばあちゃんが、少しずつ遠ざかっていった。あとに残るのは、自分になにもできなかった悔しさだけだった。

ダイアナ妃も同じだ。身近に感じたのが最近な分、遠ざかっていくのも速かった。大人たちがマージャンをジャラジャラ言わせる度に、ダイアナの影は薄くなっていき、ただ奇妙なもどかしさだけが残った。しかし、そんなどう命名すればいいのかわからないもやもやを抱えても、時間という良薬があったおかげで、ぼくはあの日以外にとくに悩むこともなく、2学期を何事もなく過ごしていった。年の瀬が迫った12月20日に、「映画監督の伊丹十三死亡、飛び降り自殺か」との速報を見るまでは。

あの字幕と一緒にぼくの頭に浮かんだのは、ダイアナ妃が死んだ日のおばさんの叫び声、そして伊丹十三が妻の宮本信子と一緒に「SMAP×SMAP」に出演し、仲睦まじく食事を楽しんでいた映像だ。まだ伊丹映画を楽しめる年齢になっていないぼくにとって、伊丹十三は偉大な映画監督ではなく、単にこの前まで妻と一緒にテレビに出て、頬が弛んだ優しい笑顔を見せただけの老人である。それがいまや、飛び降りたのである。ダイアナ妃と同じく、前の日までピンピンしていたのに、死んだのである。

テレビは大騒ぎだった、単なる事故のダイアナ妃と異なり、今回は本当に自殺か疑問を呈する報道が飛び交い、暴力団だの、闘士だの、浮気だの、有る事無い事がぼくの脳を占拠した。でも、ぼくが知りたかったのはそんなことではない。彼がなぜ死んだのかは大事だが、それ以上にぼくにとって大事なのは、昨日まで生きていた人間が、いきなり死んでしまったとき、ぼくはどうやって自分の奇妙な気分ーーダイアナ妃の死を知ったあのときと同じ気分ーーと向き合えばよいのかということだった。

そのことについて、友人と話し合ってもよかったが、それ以上に適任な人物が丁度あの学校にいた。中2の二学期から、英語の授業に週に一度女性の外国人教師が来るようになり、彼女は丁度イギリス出身だった。よし、ダイアナ妃の死について、本国の人がどう思っているか、聞いてみよう。

あの日の放課後、ぼくは職員室に行き、先生を見つけ、習ったばかりの「what do you think of」を使って聞いた。

「先生は、ロイヤル・ファミリーについてどう思っていますか?」

ぼくはたしかにそう口に出したが、それはまるで自分の言葉ではないような響きだった。こんなことを聞きたかったのではない。ぼくは「ダイアナの死」と言いたかったのに、口をついて出てきたのはなぜかロイヤル・ファミリーだ。どうなってるんだ、どうして「死」という言葉が言えないのかーーそう悔しがっていると、ふくよかな先生はこちらの本当の意図を見透かしたように、「ロイヤル・ファミリー?ダイアナ妃のことが聞きたいんじゃないの?」と聞いてきた。

「そうです。そうなんです、ダイアナ妃が死んだと聞いたとき、ぼくはーー」

そこまで言って、ぼくは言葉に詰まった。英語で話していたが、中国語や日本語ででさえうまく説明できないあの瞬間の感情を、英語で説明できるはずもなかった。「ぼくは、ぼくは」と何度も繰り返すぼくを、先生は授業中と同じようにいたずらっぽく笑いながら見つめ、「きみはどうしたの?言ってみて」と背中を押した。

「I…, I felt bad.」

頑張って絞り出した言葉が、これだった。先生はニコッとし、「Yes, I felt bad too. You felt bad, I felt bad,We felt bad.」と言った。

先生の笑顔に釣られて、ぼくも笑ってしまった。ほかにも聞きたいことがたくさんあったのに、先生のシンプルな言葉と笑いですべて忘れてしまい、ぼくはただ「I felt bad」を持ち帰り、その言葉と一緒に寝床に入った。そして、それを噛み締めているうちに、ぼくはいつの間にか泣き出し、清々しい涙のなかで、静かに眠りについた。

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