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ぼくのなかの日本(第36回、頼りにならない大人)

頼りにならない大人

「それで、きみは、なにも悪くないのかな?」

目の前にいる眼鏡をかけた四角い顔の男性教師の言葉に、ぼくは困惑した。こいつは何を言ってるんだ?こっちは被害者だぞ、なんで自分が悪いなどと言われなきゃいけないんだ?不満を込めてじっと相手の眼鏡の奥を見つめるぼく。しかし、向こうは教頭にまで上り詰めた百戦錬磨のベテラン、こっちの視線をものともせず、もう一度同じことを、同じくらい優しい声で聞いた。

「きみは、なにも悪くないのかな?もちろん、手を出したのは完全に向こうが悪い、でも、きみは、なにも悪くないのかな?」

催眠術にも似た響きを持つその声に誘われて、ぼくは思わず、その日の朝のことを思い出した。

その日は、珍しく同級生と一緒に登校していた。自分の恋を手伝う約束を無理やりさせられ、以降仲良くなった竹中くんと、たまたま鉢合わせたのだ。1人ならいざしらず、中1の男子2名が一緒にいて騒がしくないわけがない。ぼくたちは通学カバンを肩にかけ、横に並んでふざけ合いながら、学校に向かっていた。「ギギーッ!」という、耳をつんざく自転車の急ブレーキ音を聞いたのは、2人が合流した直後だった。

「あぶね!」急ブレーキ音とともに2人の間に突っ込んでくる自転車、乗っているのはリュックを背負った若い男性、たしか眼鏡をかけていた。竹中とぼくは間一髪のところで横に避け、「危ないじゃん!」と、なにも言わずに立ち去ろうとする自転車に抗議した。

「んだとコラ!てめーらが道のど真ん中を歩いてるのがいけねーんだろうが!」抗議の声に男性は振り返り、自転車を押してこっちに向かってきた。その顔は紅潮し、髪は起床後整えていないのか、それとも怒髪天を衝いたのか、見るも無残に乱れていた。竹中はその声に萎縮し、押し黙って一歩下がったが、「いやなことはいやと言わないとダメ」と教えられたぼくは、謝罪せずに口答えした、「だったらベル鳴らしゃいいだろ?突っ込んでくるなんてあぶねえよ。」

パーン、あるいは「パチン」のほうがいいのか、とにかくいい音がした。なにが起きたのかわからないぼく、音に続いて耳鳴りがし、男性が自転車に乗って走り去ったのが目に入った。駆け寄ってくる竹中の「大丈夫?」の声で我に返り、痛む頬を擦る、そうか、ビンタを食らったのか。「うわ、めっちゃ赤くなってる!」騒ぎ出す竹中、「早く保健室で見てもらおう!」そう言ってぼくの腕を引っ張るように、足早に学校に向かい、教室にも行かずに保健室に直行した。

保健室につく頃には痛みもだいぶ引き、耳鳴りはしなくなった。保健室の先生も「大丈夫みたいだね」と言ってくれた。殴られたのは癪だが、相手が誰なのかさえわからないようじゃ、どうしようもない。これからあんな輩には口答えせずにやり過ごそう。そうやって人生経験の一つとして、このことを仕舞にしようと思案を巡らせていると、どこかに消えた竹中が戻ってきて、「教頭先生が呼んでるよ。一緒に行こう」と言った。

なるほど、一応事情聴取が必要なのか。ぼくは竹中と職員室奥の個室に入り、教頭先生と担任の柳沢先生が並んで座る席の向かいに掛けた。心配そうな表情でこっちを見つめる柳沢先生、一言一言慎重に言葉を選んで状況を確認する教頭、ことを顛末を報告し終わり、「わかりました」と相手がうなずくのを見て、「よし、これで教室に帰れる」と思った矢先に、上の言葉をかけられたのである。

「それで、きみは、なにも悪くないのかな?」

考えてみれば、中1の男子2人がふざけあって横に並んで歩くのは、たしかに迷惑である。怒る相手に口答えし、火に油を注いだのもぼくの不注意だ。しかし、ぼくはそれに見合わぬ暴力を受けたのである。当たりどころが悪ければ、病院行きになっていた可能性だってあるのに、なぜ慰めの言葉一つなく、いきなり自分の悪いところを反省させられなければならないのか。納得できずに沈黙するぼく、横に目をやると、竹中が頬をふくらませている。ほら、竹中でさえ納得できない、こいつは殴られていないのに納得できないんだぞ?

気まずい沈黙がしばらく続き、教頭先生がもう一度口を開こうとしたとき、柳沢先生が一足早く、助け舟を出した。

「あのね、あなた達が悪いことをしたっていう意味じゃないの。ただ、今後こんなことにならないように、注意してほしいところがあるの。」

あっそ、注意してほしいところがあるならはっきり言えばいいじゃん、なんでこっちに言わせるんだーー口には出さなかったが、内心不貞腐れるぼく。でもずっと黙っているわけにもいかない、ここは一つ折れようーーそう思って顔を上げ、柳沢先生を見つめて、口を開こうとしたとき、ぼくは先生の表情にハッとした。あの顔は、半年前に見たことがある、全く同じ顔だ。

半年前の放課後、放送委員の定例会議を終えて、帰宅しようとするぼくを、柳沢先生は呼び止めた。「なにかやらかしたのか」と不安になったが、どうも先生は怒っているというより、気まずい顔だ。しかも廊下での立ち話ではなく、誰もいない保健室に連れて行かれ、そこでなぜか濡れているぼくの靴を見せられ、「これのことなんだけど」と切り出した。

聞けば、クラスの下品グループの3人が、昇降口のあたりで走り回っていたら、誤って下駄箱の上に置いてある花瓶を倒してしまい、そのなかの水がぼくの靴にかかってしまったのだという。しかし靴は棚の奥にあるはず、水がひとりでにカーブを描き棚の中に入ったとでも言うのだろうか。むしろ考えられるのは、あの3人がぼくのものだと知っていて確信犯でいたずらをしたことだ。まだ下品グループの嫌がらせに反抗していなかったあのころ、彼らの行為は日に日にエスカレートしていたから、これくらいは十分に考えられた。その結論に到達したぼくは、納得できずに首を振ろうとしたが、先生は保健室のベッドに座るぼくの前にひざまずくほどにしゃがみ込み、こう言ってきた。

「あの3人が言うにはね、走り回っているときに棚にぶつかって、それできみの靴が落ちてきて、そこに花瓶も落ちてきたっていうの。先生としては、考えられないことじゃないと思うから、一応納得してるけど、どうかな?」

どうかなと言われても、あんたがもう納得したと言ったら、今更こっちになにができる。しかしそう簡単に納得できるはずもない。そのまま悪態をつくようなことはしなかったが、ぼくは先生に視線で抗議をしようとし、その顔をじっと見つめた。あのときの柳沢先生はまだ20代前半、誰の目にもわかるくらいに若かった。その分生徒との距離が近いことで人気だったが、クラスの悪ガキの扱いには明らかに手を焼いていた。先生が納得したと言ったら仕方がない、でも、せめてこっちの不満も伝えないとーー

顔を上げたぼくの目に飛び込んできたのは、今にも泣き出しそうな柳沢先生の顔だった。ぼくが驚いて言葉を発せずにいると、先生は思い出したように、「あ、靴は、先生がドライヤーで乾かしたから、もう履けると思う」と必死に訴えかけてきた。なるほど、この人は、ただ事を荒立てずに、このままぼくに帰ってほしいだけか。中1の鈍感の少年にも内心を有効に伝えることができた顔、それと同じ顔が、今は教頭先生の横に出現したのである。

ぼくは急に泣きたくなった。竹中に目をやり、「ぼくたちが、歩道の真ん中を歩いているのが、いけなかったです」と、向こうが欲しがっている言葉を口に出した。柳沢先生はホッとしたように「そうだね」といい、ぼくの肩をポンポンと叩いた。その優しさが決して生徒への心配から来たわけではないことを知っているぼくは、いよいよ涙を我慢できなくなり、久しぶりに声を上げて泣き出してしまった。再び焦りだす柳沢先生、しかし、教頭先生の一言で、彼女はすぐに平静を取り戻した。

「大丈夫、悔しくて泣いているだけだから。あんなことをされたんだ、悔しくて当然だ。この子は骨があるよ。」

どこの誰のことを褒めているのかわからない教頭の言葉に、ぼくは泣きながら、心のなかで大笑いした。そして、もう大人を頼りにしないと誓った。

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