熱海/伊豆山にて「鉄(テツ)心」を考える
前回に引き続き、伊豆山の地で、テツゴコロについて書いてみます。ここにはかつて「熱海鉄道」という軽便鉄道が走り、テツ中興の祖、宮脇俊三が東海道線を眺める想い出の地でもあるのでした。ちょっとマニアックな伊豆山セカンドエピソードです!
熱海に私鉄があった!?「熱海鉄道」
熱海の駅前には、以下のような可愛らしい蒸気機関車が保存されています。こちらは、国鉄のものではなく、東海道線がまだ国府津から御殿場経由だった頃、小田原-熱海間を走っていた軽便鉄道の蒸気機関車です。小田原-熱海間の所要時間は2時間40分。現在の東海道線なら25分、新幹線で10分。(googleで検索すれば、自転車で1時間37分!)25kmをなんとものんびりと走っていたものです。
さて、この軽便鉄道には、我らが偏屈テツおじさんの内田百閒もご乗車しているのであります。湯河原の「天野屋」で療養中の師匠=漱石先生を訪ねていく場面にこんな一幕が、
という当時の情景が思い浮かぶ、百閒師匠による描写!
さらにこの「熱海鉄道」の前身には、人車鉄道なるものが走り、熱海への足を担っていたのでした。人力車で6時間のところをもう少しは早く行ったのでしょう。
いくら人件費が安かったとは言え、収益的に無理があったようで、人車鉄道の経営はあまり長くは続かなかったようです。ただし、熱海というより、湯河原を愛した文豪たちが多かったことから、国木田独歩、芥川龍之介など文学作品の中に登場したりします。
おっと、このままでは、豆相人車鉄道だけで終わってしまいそうなので、舵を切って、伊豆山に向かいます。
我らが宮脇俊三と伊豆山
テツ仲間の中でも、「読み鉄」、「乗り鉄」にとっては欠かすことが出来ない人物、宮脇俊三氏。中央公論で勤める傍ら、幼少期からの鉄心を失うことなく、休日には全国の鉄道を乗り倒し、常務まで行くも、国鉄全線の完全乗車を著した「時刻表2万キロ」を出版を機に退社(51歳)、文壇デビュー。
宮脇先生、熱海と伊豆山は思い出の地であり、特に伊豆山は、彼のテツ心の醸造に欠かすことが出来ない地なのでした。
伊豆山付近は箱根の南に位置し、岩戸山(734m)中腹で、大小の谷があるのと、温泉地ゆえ、難工事が続いた場所でもあります。
その伊豆山温泉の中心地から北の外れにある「泉越トンネル」があるのですが、このそばで、少年宮脇は、兄と遊んだ時期がありました。少々長いですが、以下引用。
また「私の途中下車人生」という別の本では、
「私と兄は泉越トンネルの出口のところに立っては、つぎつぎと通過する汽車を一日中見ていた」
「汽車と初島、このシーンはあとで何度も夢にみました。夢でもそのときの様子がはっきり映っているのです。~ 少年時代の旅の思い出の中で、これはかなり強烈なたいけんだったようです。もっとも、初島や汽車がちょっと見えただけで、目が覚めてしまうのですよ。いまでも、この夢を見ることがあるんです」
と、まあこんな具合で、ネイティブ・テツ(物心ついた頃には鉄道が走っており、幼少期にテツとして萌芽!?)にとっては、こんな忘れがたい、夢に何度も見てしまうような思い出が少なからず、1つ、2つはあるのかと思われます。
泉越トンネルの今
熱海駅から東海バスの伊豆山循環で、「小学校入口」で下車。崖の下に泉越トンネルが見えてきます。
国土地理の不断の努力のおかげで、地形図も航空写真も容易に見ることが出来る時代になりました。感謝!
このトンネルは、岩盤が緩く、複線ですが、強度を確保するため、一本ずつ掘っているので、トンネル自体は単線二穴になっています。
現在の様子はどうかと言いますと、下記の通り草むらに覆われたトンネル開口部を崖の上から眺めることが出来ます。
左側の私有地(注:今は立ち入り禁止)に宮脇兄弟は佇み、トンネルを見つめて、過ぎ行く列車に思いを馳せるのでした。宮脇氏の原風景の一つというところでしょう。
宮脇俊三、再び熱海へ
宮脇氏は、終戦を米坂線の今泉駅前で迎えることになります。これも「増補版 時刻表昭和史」に載っている読み鉄にとっては有名?なエピソードですが、終戦の4か月前に宮脇氏、東大の理学部の地質学科に入ります。
そして、西洋風だった自宅が進駐軍に接収されるかもしれないと宮脇の父が判断し、昭和20年末に、安く自宅を売ってしまいました。そして、知り合いの空き家の別荘を借りることなり、熱海に住むことになります。
戦後のどさくさの熱海駅の様子は以下のよう。
今は、東海道線の上野・東京ラインは熱海止まりの列車が多いですが、JRになる前は、東京から静岡とか沼津までの普通列車は結構ありました。丹那トンネルから抜けてきた列車はそのまま東京方面へ向かうのでした。
その後の宮脇氏の熱海の想い出は、どのように集めたか学生のグループを作り、ハイキングしたり、同人誌を出したり、芝居をやったりと戦後の大変な時期だったと思いますが、文化活動に精を出すのでした。そのうち、熱海には文豪、著名人が多くおり、文化人を呼んでの座談会などもやって、青春のひと時を過ごしたのでした。
熱海駅の思い出
さて、ここから私の小テツ時代のお話し。
時は70年代後半、この頃はスーパーカーブームがあり、各地でモーターショーがあり、少年たちの心をつかんでいましたが、そのあと少し遅れて、空前のブルートレインブームが起こりました。これが80年代半ばくらいまで続くのでした。当時、国鉄が仕掛けたものであったのは確かですが、子供たちにとっては、そんなことはつゆ知らず、まんまとその流れに乗せられるのでした。すでに幹線の蒸気機関車はほとんど姿を消しましたが、L(エル)特急が全国を駆け巡り、アニメでは銀河鉄道999、フルムーン夫婦グリーンパスが81年に初めて発売されたりと、鉄道ネタは事事欠かない時代でした。
小学校2年生の頃から火が着いたテツ心は、ブールートレイン大百科とか、カード?シール?みたいなくじが駄菓子屋に並び、あっという間に全国を走っているブルートレインやL特急の名前と行先も同時に頭の中に入っている。近場の私鉄駅もすべて覚え、東海道線は東京から豊橋まで各駅停車で暗記しているのでした。(名古屋や米原あたりまで行かないところが軟弱笑)
ところで、小テツ心を醸成する条件の一つは、やはり生活空間の間近に、鉄道があることでしょうか。自分にとって幸いだったのは、自転車で数分のところに東海道線が走っていたこと。いくつかあるのうち、二つのあそび場は東海道線を眺められるところでした。
宮脇氏の幼少期は渋谷の宮様の敷地の原っぱがあそび場で、そこから山手線を眺めています。
内田百閒先生は、少し距離がありましたが、高校の頃に通っていた自転車で行けるところに山陽本線が走り、西に東に向かう長距離列車を眺めるのでした。岡山駅は今でも西の鉄道の拠点、そんなことも影響していたかもしれません。ちなみに百閒の名も、岡山駅と東岡山駅の間に流れる川は「百間川」と言い、ここから命名。
東海道本線、山陽本線を走る長距離列車の存在は、当時のテツ一族にとっては胸ときめかすもので、ヘッドマークや寝台車の車両もさることながら、「ああ、これに乗れば、鹿児島や長崎、山陰、果てしない西の世界にいける!」と思いを巡らすのでした。
そして夕暮れ時に、あそび場から眺めるブルートレインを見るだけでは飽き足らず、毎週土曜の夜、三島から二駅先の熱海に向かうのでした。小2で夜だとさすがに一人では行けず、同伴者は祖父のじいちゃん。
愛する孫とは言え、今考えるとよく付き合ってくれたものです。
実家から出て来た当時の僅かな写真は、小2の誕生日に買ってもらった小さなポケットカメラで撮ったもの。画質は悪いですが、必死に撮っていたと思われます。
さて当時に近い「ごお・さん・とお」(昭和53年10月)の時刻表を見てみれば、「さくら」「はやぶさ」「みずほ」は熱海を通過しますが、「富士」「出雲」「あさかぜ」は熱海に止まるので、ここまで見に来るのでした。
下りホームの中ごろにあるスナックコーナーで温かい「ホットドック」を食べて、宇野行きの「瀬戸」(懐かしい!)まで見るのが限界。帰り電車はもう居眠り…。
この年の暮れ、テツ心、やむにやまれず、じいちゃんと共に、初めて特急「富士」に乗り、今はなき「西鹿児島」まで行くのでした。朝焼けの静かな瀬戸内海、夕暮れ時遠くに見える桜島は今でも記憶に残っています。
再び黄金期は来るのか…
熱海駅は今でも結構、撮り鉄仲間の人たちには、好かれる駅なのか、結構、カメラ構えている人いるんですよね。
昭和最後の黄金期にはご覧の通り、日中も、急行「伊豆」「東海」、特急「あまぎ」なんかも走り、伊東線もあったりして、1日いても、飽きなかったでしょう。
コロナや台風などの災害も相まって、地方のローカル線の縮小は拍車がかかり、一度災害が起こった後の復旧もかなりの時間を要しています。引き続き、テツ受難は続きます。新たに寝台夜行が走ることもないのでしょうか。走ったら、乗る人もそれなりにいると思いますが、おそらく数本走らせたところで、費用対効果は全くないんでしょうね。
東京駅出発前の、ブルートレイン「みずほ」の食堂車、こんな光景を今一度見たいものです。ここに至るには、、、我らテツ友の情熱と、JRの鉄魂にかかっているのか!
いつの日か、新しく青い寝台夜行が走るようになった暁には、東京駅でみなさん一緒に見送りましょう~
セカンドエピソードのはずが、一番ロングな記事になってしまった…。
長々とお付き合いいただきありがとうございました!
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