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はじめの一歩

2022年3月12日(土)、ひさしぶりの2連休に気をよくして、noteをはじめることにした。

過去を振り返りながら、きっかけを整理してみる。

わたしは幼いころから、本を読むことがたいへん好きであった。幼稚園生のときには何冊も読み聞かせをねだったという。
小学2年生のころだったか、毎週末図書館で20冊借りていた本を土日のうちに全て読み切ってしまって、母親にたしなめられたことを覚えている。それでも一気に本を読むわたしを見かねた母は図書館だけではなく公民館でも10冊借りるようにしたのだが、間違えて図書館の本を公民館に返してしまって、図書館の本を弁償する羽目になったそうだ。
母を煩わせるほどの本好きが高じて、小学校の卒業式には、「絵本作家になりたい」と夢を語った。

中学生の時には、話す友達がいないわけではなかったのだが昼休みは図書室に篭りきり、担任に心配されたこともあった。唯一置いてあった漫画の「名探偵コナン」を読んだり、人体図鑑の生殖器を指差して笑い合ったりしている同級生を横目に、たくさんの小説を読んだ。
特に東野圭吾を好きになり、図書室に置いてあるものはハードカバーも文庫本も含めてすべて手に取った。(教室程度の大きさの図書室だったのでそんなにたくさんの本があるわけではなかったのだが。)
ことさら覚えているのは『片想い』で、これを読んではじめて「性同一性障害」という言葉を知った。読書の魅力は見知らぬ世界を追体験できること、などとよく聞くが、それに加えて自分の中にことばが積み上げられていく感覚が心地よく、10分休みであっても本を開くほどに読書にのめり込んでいた。

高校生になると、課題やテストに追われながら週7で部活をしていたために、趣味で読書をする時間が一切取れなくなってしまった。本を読む時間と気力があるのならば勉強すべきだろうという思考になってしまったのだ。思い返せば国語の授業で読書を課された『こころ』さえも読むことはしなかった。わたしは非常に勤勉な生徒であったと自負しており、課題をさぼったことはほとんどなかったのに、課題図書を借りることすらしなかったとは、読書を楽しむ余裕が完全に失われてしまっていたようだ。言い訳じみているが。
それでも部活が終わり、受験勉強一色になった3年生の秋、荒む心を落ち着けるべく息抜きにこっそり読書をしていた。しかし勉強机の足元に隠していた本が父親に見つかって、びりびりに破り捨てられていたのをいま文章を書きながら思い出した。今思えば、息子のゲーム機をへし折った高嶋ちさ子かよ、という話である。娘の将来を思えば父の行動ももっともなのだが、当時のわたしは本当にほぼ鬱状態であったので、一日30分の読書くらいは許してあげて欲しかったと思う。

心が折れそうになりながら挑んだ受験であったので、第一志望の国立大学には落ちてしまった。それでもまぐれでそこそこ名のある都内の私立大学に進学した。関東近郊の私立高校出身の陽キャで溢れている私大と田舎の公立高校とのギャップは恐ろしく、まさに朱に交わればでわたし自身もどんどん自堕落な生活に陥っていった。
高校時代とは違い時間はたっぷりあったが、読書習慣が高校で失われていたこともあり、他の魅力的な娯楽や東京の街の散策に勤しんで、読書をする機会が増えることはなかった。かろうじてレポートを書くために図書館に通うことはあったが、自分の興味から本を選んで手に取った回数はいったいどのくらいだっただろう。所持していた本がロフトベッドの小さな棚に収まる程度だったから、下手をすると20回すら超えていないかもしれない。

自堕落で腑抜けた四年間を終えて、卒業宣言した絵本作家にはなれなかったが、ことばを扱う仕事に就くことができた。右も左も、どこに立っているかも定かではなかった一年目がもうすぐ終わろうとしている。時間が有り余っていた大学時代のブランクから未だ抜けきれていないところもあり、大学でモラトリアムを与える社会に怒りが湧いている。怒っても仕方がないのでただの八つ当たりなのだけれど。
マニュアル化できる仕事ではないので、誰にも教えてもらえないことばかりである。拘束時間も長いし、心乱されるような事件が今年一年でいくつも起きた。わたしは実家でちらっと見たカムカムエブリバディに挿入されたおしんの一場面で泣いてしまうような、情けないほどの泣き虫であるのに、職場で大泣きせずに一年を終えられそうな自分を大いに褒めてあげたい、と思っている。



職場に慣れるだけで精一杯の一年ではあったが、一応ことばに携わる仕事をしている者の端くれとして、今年一年間でもっとも強く衝撃を受けたことばをここに引用する。

  かなしみ  谷川俊太郎

  あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
  何かとんでもないおとし物を
  僕はしてきてしまったらしい
 
  透明な過去の駅で
  遺失物係の前に立ったら
  僕は余計に悲しくなってしまった

有名な谷川俊太郎の詩。
この詩を目にして、 くらくらするほど強く共感を覚えた。「何かとんでもないおとし物」をしている感覚が、特に今年一年で大きくなっているからだ。忙殺される日々、自分の中の何かがじわりじわりと削り取られている感覚に非常に近いものであるように感じた。
悲しいかな人間は大人になるにつれてさまざまなおとし物を少しずつしていかねばならないと思う。そしてわたしのおとし物の一つは、ことばを楽しむ感受性であるような気がするのだ。
帰宅してからや、休みの日、時間が全くないわけではないのだが、本を開く気持ちになど到底なれず、特に興味があるわけでもない動画をぼんやりと眺めていることが多くなった。ことばに触れて頭をつかうのは勤務時間でお腹いっぱい。そう自覚していたわけではないが、いま思えばそういった精神状態にあったのだろう。
しかしながら年の瀬にこの「かなしみ」に出会って、自分の時間にも少しずつ、詩歌を口ずさんだり作ったり、小説を読んだり、新書も開いたりするようになった。

ことばを扱う仕事にせっかく就くことができたのだから、ことばのうつくしさやおもしろさに敏感でいたい。そうして微力ながらそれを広めていきたい。僭越ながらもそう思うようになったのだ。

このような心境の変化があって、ついつい無駄に時間を取られてしまうSNSを消したので、ことばや生活に関するあれこれをここに記していくこととした。気まぐれ更新になるだろうし、ことばに関する仕事をしているくせにあまりきれいな文章を書けないのが恥ずかしいが、社会人1年目の備忘録として、文章をまとめるトレーニングも兼ねて、自分のために書いていくことにする。

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