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015_陰影

 燦々と注ぐ眩い夏の陽光が、生い茂る芝生の薫りを、深く立ち上らせている。

 先程までローンテニスに興じていたルシアとサウザンクロス侯バーナードは、庭園に設えられた東屋で、ゆったりとした時を過ごしていた。

 晩餐会から数日、侯爵は、毎日足しげくルシアの元に通ってきている。

 境遇の似たもの同士で、話が合うのだろう。ルシアも、彼の訪問を、心待ちにしている。

 それが、喜ばしい変化であるのかは、まだ分からない。

 サミュエルは、仲睦まじい若い二人を眺めながら、ちいさな嘆息を零した。

 近頃、妙に胸の奥が疼く時がある。しかし、理由にはさっぱり思い当たらない。

 不摂生とは、およそ縁遠い生活をしているし、この感じだと、風邪を引いたという訳でもなさそうだ。

 そんなほのかな不安を顔に出すことはせず、サミュエルは粛々と、貴人たちのティータイムを補佐していた。

「陛下、お茶のおかわりは如何ですか?」

「そうね。いただくわ。」

 ルシアは、ちいさく頷くと、空になったカップをサミュエルに差し出した。

 こぽこぽと密やかな水音を立てながら、爽やかなマスカットにも似た香気が、ふわりと鼻をくすぐる。

「陛下は、ローンテニスも達者でいらっしゃる。」

「お褒めに与り光栄ですわ、サウザンクロス侯。」

 バーナードからの賛辞に、ルシアはにこやかに応じた。

「私のことは、どうぞバーナードとお呼びください。せっかくの休日です。それに、実のところ、騎士様方が羨ましいのですよ。」

 侯爵は、恭しく胸に手を当てると、茶目っ気たっぷりに小首を傾げてみせた。

 澄んだ瞳の奥で、彼はいったい、何を考えているのだろう。

 サミュエルは、釈然としない思いで、二人の側に控えていた。

 いくら心を開いているとはいえ、さすがに、ルシアもこの申し出は断るだろう。

「分かりましたわ、バーナード。せっかくの休日ですものね。わたくしのことも、名前で呼んでくださって構いませんよ。」

 ルシアは、サミュエルの淡い期待を、真っ向から打ち砕いた。こともあろうに、自身を名で呼ぶことさえ許してしまう。

 若い二人の距離は、言葉を交わすごとに、確実に縮まっていく。

 サミュエルは、ルシアの無防備さに、軽い眩暈を覚えた。

「ああ、ルシア様! 貴方様の美しい名を、お呼び出来る日が来るなんて!」

 侯爵は、眩いばかりの碧眼で、陶然とルシアの顔を見つめている。

 ルシアも、大人になったのだ。そんなことは、とうに分かっているつもりだった。

 いつまでも、少女でいる訳ではない。ちいさな掌で、サミュエルの袖を引いていたあの頃とは、もう違うのだ。

 この後に及んで、自分が心配する必要はない。彼女は、飛び立とうとしているのだ。これ以上は、過保護というものだろう。

 それでも尚、サミュエルは、不安を拭いきれずにいた。

 草いきれのする夏の日差しは、彼女の顔に、深い影を落としている。

 

 

 

 雀色時になって、侯爵は、名残惜しげに去って行った。

 暮れなずむ離宮には、静けさだけが寄り添っている。数人の使用人を除けば、ここにはもう、自分達しかいない。

 夕食前のティータイムを過ごすルシアの横顔は、どことなく寂しげだった。

 まるで心が遠くに行ってしまったかのように、侯爵が辿っていった帰り道を、ぼんやりと見つめている。

「ルシア様。差し出がましいようですが、先程のは、いささか軽率に過ぎるのではありませんか?」

 サミュエルは、静寂の合間を縫うように、重い口を開いた。

「先程?」

 ルシアは、何事か分からぬ顔で、不思議そうに小首を傾げた。

「名前呼びの件です。」

「あら、お友達に名前で呼ばれてみたいのって、そんなに悪いことかしら。」

 サミュエルがちいさく咳払いをすると、ルシアは、すこし拗ねたように頬を膨らませた。

「いえ。それ自体は、普通のことですよ。ですが、お相手がお相手ですので。」

 サミュエルは、噛んで含めるように、慎重に言葉を選んだ。

「彼は素敵な人じゃない。それに、アラスター叔父様の紹介だし、問題ないでしょう? ねえ、エドワードもそう思わない?」

 ルシアは、サミュエルの言葉に抗議するように唇を尖らせると、黙然と紅茶を啜っていたエドワードに問いかけた。

「確かに、いい人だとは思います。ただ、その。知り合ったばかりですし、サウザンクロス侯は、男の人、だから。」

 急に話を振られ、エドワードは、驚いたように金色の目を瞬かせた。凛々しい眉を八の字に寄せて、言い淀むように、ティーカップに視線を落とす。

「そうですよ、ルシア様。侯は、男性です。貴方様がご友人だと思っていても、相手もそうであるとは限らないのですよ。」

 サミュエルは、エドワードの言葉を引き継いで、ルシアに注意を促した。

 彼の様子から察するに、友人に留まるつもりなど毛頭ないだろう。ある程度は、警戒を怠るべきではない。

「そんなこと……。そんなこと、分かっています。いつまでも子供扱いしないでちょうだい。」

 ルシアは、きゅっと唇を噛み締めると、鋭い視線をサミュエルに向けた。

 彼女の固い声音に、サミュエルは、思わず息を呑む。

 こんなにも険しい顔をしたルシアを、今まで見たことがあっただろうか。

 白皙はくせきの頬は赤く染まり、肩をわなわなと震わせている。

 サミュエルは、ここに至って、自身の不明を恥じた。

「……失礼致しました。」

 普段朗らかなルシアに、こんな顔を向けられたら、言葉など出てくるはずもない。

 サミュエルは、ただただ頭を下げることしか出来なかった。

 せっかくの休暇だというのに、こんな顔をさせてしまったのは、他ならぬ自分である。

 サミュエルは、憤然とそっぽを向いたルシアを、呆然と見つめていた。

 今までに重ねた言葉は、本当に、彼女の身を案じただけのものだったのだろうか。

 自責の念で真っ白になった頭の片隅で、かちりと音を立てて、欠けたピースがはまる。

 きっと、あれは、自分の為の言葉だったのだ。

 そうだとしたら、胸の疼く理由も、釈然としなかった気持ちも、全てがすとんと腑に落ちる。

 知らずにいた方が、きっと良かったに違いない。

 サミュエルは、ぎゅっと拳を握りしめた。

 煌々と燃える残照が、ルシアの表情を隠している。

 重たい沈黙が、耳に痛い。

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