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016_蜘蛛の糸

 欠け始めた深更の月明りは、青い影を、石畳に投げかけている。

 昼間の熱気を残したヴェラの街は、故郷よりも緑の薫りが濃い。王家や諸侯がこぞってこの地に別荘を構える気持ちも、訪れてみればよく分かる。

 アンブローズは、音を立てぬように、郊外にある瀟洒な邸宅の門をくぐった。

「待っていたよ、アンブローズ。」

 玄関先に佇んでいた別荘の若き主人は、こちらを見て、嬉しそうに相好そうごうを崩した。

 金糸の髪が、艶やかに揺れる。月の光を受けて、澄んだ碧眼が、星のように瞬いた。

 彼の顔を見ているだけで、渚に立ったような気分になる。

「安心して。使用人たちも、もう夢の中だ。」

 別荘の主――バーナード・エングルフィールド卿は、念入りに辺りを見回すと、ちいさく手招きをした。

 ぼんやりと燃える燭光の柔らかな闇の中に、人の気配はない。

 アンブローズは、ひとつ頷くと、足音を忍ばせて、侯爵の後をついて行った。

 薄暗がりに包まれた廊下を、二人は、物音を立てずに進んでいく。磨き上げられた階段を昇り、広い廊下を抜けていく。

 二階の最奥にある侯爵の寝室は、伝統的な調度品で品良く彩られていた。

「良いブランデーが手に入ったんだけど、飲むかい?」

 バーナードは、テーブルに置いてあったボトルを掲げた。年代物の、コニャックだ。きっと、わざわざアンブローズの来訪に合わせて取り寄せたのだろう。

「ああ、貰おうか。」

 アンブローズは、アンティークのソファに腰を下ろすと、にこやかに答えた。

「会いに来てくれて、嬉しいよ。」

 バーナードは、華やぐような笑みを浮かべながら、アンブローズにグラスを手渡した。

「ずっと、君を待っていたんだ。良い報告もあるしね。」

 上質な野薔薇の薫りが、鼻先をくすぐる。

 バーナードは、堪えきれないというかのように、アンブローズの肩にもたれかかってきた。

「女王の件は、順調のようだな。」

 アンブローズは、バーナードの白い手を撫でながら、ちいさな笑みを浮かべた。

「ああ。何度も会いに行って、名前で呼ぶのを許して貰ったし、明後日には、ここに来てくれるんだ。彼女、俺のことを気に入ってくれている。」

 バーナードは、めくるめく女王との逢瀬に思いを馳せているのか、うっとりと目を細めた。

「それは重畳。落とせそうか、バーナード。」

 アンブローズは、バーナードの柔らかな金糸の髪を、優しく撫でた。

 こうしていると、幼少期に飼っていた大型犬を思い出す。あれも、アンブローズの顔を見ると、千切れんばかりに尻尾を振っていたものだ。

「このまま、邪魔さえなければね。」

 アンブローズの問いに、バーナードの顔が、にわかにかげを帯びる。

 懸念があるとすれば、女王の傍らに侍る彼らの他にいないだろう。

「オルブライト兄弟か?」

「ああ。今のところ、二人とも見守っているみたいだがね。どうも、兄の方は、彼女に気があるみたいだ。」

「なるほど、サミュエルが。そうか……。」

 予想外の返答に、アンブローズは、緩む頬を抑えきれなかった。

 これは、思わぬところで面白いことになっている。

 計画の邪魔になりかねない要素ではあるが、楽しめる部分が増えたとも言えるだろう。

「時折、悔しそうにこちらを見ているときがあってね。傑作だよ。一介の騎士が、女王様に懸想けそうだなんて! あの顔、君にも見せたかったな。」

 バーナードは、至極しごく愉快そうに、くつくつと喉を鳴らした。

「それは是非見てみたいものだな。弟の方はどうだ?」

 アンブローズは、出来るだけ顔に出さず、淡々と問いを重ねた。

 写真で見たあのお綺麗な顔が、嫉妬で歪むさまは、さぞかし見物だろう。

「そっちは、彼女の成長を微笑ましく思っているんじゃないかな。味方につけるのは難しいだろうけど、邪魔にはならないはずさ。」

 バーナードは、顎に手を当てると、考えながらゆっくりと答えた。

「邪魔にはならない、か。まあ、確かに注意するべきなのは兄の方だろうな。嫉妬に狂った男は、何をするか分からない。」

 調べた限りでは、エドワードは、身体能力はずば抜けているが、純朴すぎるところがある。余程のことがなければ、こちらの謀略に気付きはしないだろう。

 問題は、サミュエルだ。パブリックスクールも士官学校も首席で卒業し、ウォルターの薫陶を受けたあの男は、舐めてかかると痛い目を見るに違いない。

 何より、ルシアを好いているというのなら、尚更警戒していることだろう。

「ああ。でも、自分の立場くらいは、分かっているんじゃないかな。」

 そう言って、バーナードは、意地悪く目を細めた。

 確かに、建前上は弁えているのだろう。今のところ静観を決め込んでいるのが、その証左だ。

 侯爵と騎士、どちらが女王に相応しいかなど、火を見るよりも明らかである。彼女を想うなら、このまま身を引くという選択肢もあるだろう。

「人の感情は、侮るとろくなことはない。」

 アンブローズは、ブランデーを一息に呷ると、ぽつりと漏らした。

 感情というのは、そう単純なものではない。

 頭では分かっていても、心が納得していないことを実行に移せる人間は、そう多くはない。

 自分のように、目的のために愛する者を手に掛ける人間が、少数派だという自覚はある。

 そして、それでも、痛みを感じるということを、アンブローズは、身を以て知っていた。

 そうではない者なら、尚のことだろう。

「……君がそう言うなら、慎重に行くよ。」

 バーナードは、しばし考える素振りを見せると、人懐っこい笑みを浮かべた。

 この青年は、ひどく寂しがり屋だ。

 若くして両親を亡くした上、家柄が良い分、対等な付き合いというものに飢えている。

 それを与えるのは、そう難しいことではなかった。

「念の為、うちの連中を二、三人控えさせておくか? お前に何かあったら、悲しみで胸が潰れてしまう。」

 アンブローズは、眉根を寄せると、そう嘯いてみせた。

「君は心配性だな。でも、安心してくれ。最近、腕の立つ使用人を雇ったからね。騎士団じゃ、目立ってしまうだろう?」

 バーナードは、宥めるように、アンブローズを抱き寄せた。背中を撫でる大きな掌が、彼の言葉が嘘ではないことを伝えてくれる。

「そうか。それなら安心だな。ミーティアの未来の為には、女王の意識を変える必要がある。お前なら、最良の伴侶になるだろう。」

 アンブローズは、侯爵にされるがままに任せると、得意気な顔をしているバーナードの頬を撫でながら、にこりと微笑みを浮かべた。

「なあ、今夜は、ゆっくりしていけるのかい?」

「いや、すまないが、戻らなくてはならない。お前と、朝までゆっくり過ごしていたかったんだがな。」

 まさぐるようにバーナードの背に指を這わせながら、アンブローズは、彼の耳元で囁いた。

「それは残念だ。俺も、君とゆっくり過ごしたかったんだけれどね。」

 バーナードは、腕を解くと、悄然と眉を下げた。

「また今度、な。」

 アンブローズは、寂しげな彼に軽い口付けを贈ると、立ち上がって、彼の金糸の髪を撫でた。

 必要な情報を得たからには、長居をする理由もない。

 アンブローズは、そのまま踵を返すと、寝室の扉へ向かった。

「今度は、ゆっくり出来るときに来て。約束だからね?」

 追い縋ってきたバーナードは、拳を握ると、アンブローズの前に差し出した。

「ああ、予定を空けておこう。」

 アンブローズは、優しく微笑むと、自身の拳をこつりと合わせた。

 玄関先まで見送りに来たバーナードの姿が見えなくなると、アンブローズは、月影の落ちた石畳を進み始めた。

「……アンブローズ様、如何いたしましょう?」

 暗がりからの呼び声に、アンブローズは、静かに足を止めた。

 短く揃えられた赤毛の下、地味な顔立ちの中で唯一目を引く緑の双眸が、じっとアンブローズの言葉を待っている。

 まさか、この使用人が、騎士であるとは誰も思うまい。

 変装に長けた騎士団員ハワード・マクレガンは、静かに上官の指示を仰いでいる。

「女王が来訪する、明後日が勝負だ。あれがぼろを出さないよう、見張っていろ。」

 アンブローズは、短く指示を出すと、再び歩き出した。

「お任せください。」

 背中で部下の声を聞きながら、アンブローズは、瀟洒な門をくぐった。

 サミュエルの心境の変化が、吉と出るか、凶と出るか。

 どちらに転んでも、愉快なものが見られるだろう。

 深さを増した宵闇は、世界の全てを隠してしまっている。

 アンブローズは、踊るように闇夜を踏みしめた。

 見えないからこそ、面白いというものだ。

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