021_旅程
滔々と流れていく雲間を縫って、飛行船は、一路、南へと舵を切る。隣国ポラーリアからブリッツベルグへ向かう空の旅は、列車よりも早く過ぎていく。
雲が糸のようにたなびくさまを、ルシアは、飽きもせずに眺めていた。
きっと、手の届きそうな青空が、物珍しいのだろう。
エドワードは、それを微笑ましく見守りながら、次の外遊先の日程を確認していた。
「久し振りのポラーリアは、楽しかったわ。伯父様達も、元気そうだったし。そういえば、初めて行ったときも、あなた達と一緒だったのよね。」
ルシアは、くるりと振り返ると、余韻に浸るように頬を緩めた。
亡き母の祖国で過ごした三日間は、彼女にとって、心安らぐ時間だったろう。
老王夫妻は、終始ルシアのことを、実の娘のように慈しんでいた。
「ええ。あの時は、確か、先王陛下と私の後ろに隠れていらっしゃいましたね。」
懐かしむように、サミュエルがくすりと笑声を零す。
小さな掌で、不安そうに父とサミュエルの裾を掴んでいた幼いルシアの姿は、今でも昨日のことのように思い出せる。
「でも、ちゃんとご挨拶出来たじゃない。」
ルシアは、抗議するように、すこしだけ口を尖らせた。
初めてポラーリア王国を訪れたのは、ルシアが、正式に王の後継者になった頃である。
エドワードも、騎士団に入隊して初めての外遊で、かなり緊張していた。
「そうでしたね。初めてなのに、ご立派でしたよ。少々、ぎこちなくはありましたが。」
サミュエルは、懐かしげに頷くと、からかうように相好を崩した。
「でも、それが可愛かったですよ。ね、兄様。」
サミュエルも、ようやく、いつもの調子に戻ったらしい。
エドワードは、兄の横顔を覗き込むと、ちいさく微笑んだ。
あの頃のルシアは、引っ込み思案で、何かあるとサミュエルの後ろに隠れる子だった。
そのルシアが、恐る恐る前に出て、優雅に挨拶をしたときは、ちょっとした感動を覚えたものである。
「……そうだね。」
サミュエルは、何故か噎せこむように咳払いをひとつすると、ふわりと微笑んだ。
「あら、今は可愛くないって言いたいのかしら?」
ルシアは、サミュエルを挑発するように、わざとらしく小首を傾げる。
サミュエルがすっかり元に戻って、ルシアも嬉しいのだろう。
「いえ。今は、随分とお美しくなられたかと。」
サミュエルは、首を横に振ると、お返しとばかりに、にっこりと口の端を上げた。
「まあ、サミュエルったら。そうやって、女の子を誑かしているんじゃないでしょうね?」
「滅相もない。本当のことを言ったまでですよ、ルシア様。」
サミュエルは、心外だとでもいうように眉を上げると、胸に手を当てて瞑目した。
確かに、まだまだ可愛らしいところもあるが、近頃のルシアは、美しいという言葉の方が、似合うようになってきている。
エドワードも、同意を込めて、無言でこくりと頷いた。
「……あなた達ずるいわ。二人がかりで。」
ルシアは、すこし照れ臭そうに、ふいと顔を背けた。わずかに見える横顔は、すこしだけ赤らんでいる。
やがて、ポラーリアから南下を続けていた飛行船は、緩やかに高度を下げ始めた。
「そろそろ到着のようですね。……ルシア様、ブリッツベルグでは、何卒気を抜かれませんよう。」
「分かっているわ、サミュエル。カーティス叔父様のことがあるもの。」
ルシアは、サミュエルの一言で顔を上げると、眉宇を寄せて頷いた。
革新派の事件といい、ヴェラでの一件といい、背後にはいつも、白面騎士団の影があった。モントール公を糾弾出来るほどの確証がないとしても、彼の指示であることは明白である。
ウォルターからの連絡はまだないが、ブリッツベルグで、何らかの動きがあると考えるのが妥当だろう。
「兄様も、俺もいるから、大丈夫ですよ。」
エドワードは、ルシアの不安を拭うように、力強く頷いた。
彼女だけは、何があっても守り抜く。もう、傷ひとつつけさせはしない。
「信じているわ、あなた達を。」
ルシアは、ふっと眉間の力を抜くと、柔らかな笑顔を浮かべた。
飛行船は、滑らかに速度を落として、ブリッツベルグの帝都に着陸する。
タラップを降りると、迎えの使者が待ち構えていた。四頭建の馬車には、ブリッツベルグの象徴である金色の鷲が鎮座している。
「女王陛下、ようこそ我がブリッツベルグへお越しくださいました。我らが皇帝も、宮殿であなた様の来訪を心待ちにしております。」
使者は、畏まって口上を述べると、恭しく頭を垂れた。
「お招きいただきありがとうございます。わたくしも、ブリッツベルグを訪れるのを楽しみにしておりました。」
ルシアもまた、女王の顔で、凛然と答えた。
女王らしい振る舞いも、すっかり板についてきている。
三人が乗り込むと、馬車は、馬の嘶きと共に、ゆっくりと帝都を進み始めた。
人通りの多い目抜き通りは、商店の売り込みや、買い物を楽しむ人々の活気に満ち溢れている。
街灯は、今では珍しい電気式だ。隅々まで手入れの行き届いた街並みは、豊かさを誇るかのようである。
エドワードは、車窓の景色を眺めながら、眩さに目を細めた。
かつてバーナードが言っていたように、帝国の都は、繁栄を極めている。
彼らの栄華の裏で、泣いている人もいるのだろう。それを考えると、エドワードは、素直にこの街を美しいとは思えなかった。
華やかな帝都を横切った馬車は、やがて、金色の鷲を頂く宮殿へと、吸い込まれていった。
馬車を降りれば、コスモスが咲き誇る宮殿の庭先だった。艶やかな秋草の庭園を抜け、瀟洒な回廊へと出る。
エドワードは、ルシアの後ろに付き従いながら、皇帝の居城に跫音を響かせた。
ミーティアよりも、随分と派手な装飾が目立つ。金色の鷲の意匠は、いたるところで来訪者を睨み据えている。
使者の案内で、三人は、煌びやかな宮殿の奥へと通された。
「ああ麗しのミーティアの女王、よくいらしてくれた。我が帝都は、いかがだったかな?」
玉座の間で迎えてくれたブリッツベルグ皇帝ランプレヒト二世は、ルシアの手を取ると、恭しく口づけを落とした。
「お会いできて光栄です、ランプレヒト二世陛下。とても豊かで、活気のある街ですわね。」
ルシアは、凛と背筋を伸ばしたまま、にこやかに返した。
「お気に召して頂けて何より。我が国は、世界の先端を行っていると、我ながら自負しておりますでね。博覧会では、世界中の品を集めておりますので、どうぞ明日は楽しんでくだされ。」
ランプレヒト二世は、上機嫌で、立派なカイゼル髭を撫でた。
悪意はないのだろうが、自慢話を聞かされているようで、どうにも鼻持ちならない。何より、収奪の成果を誇るのは、悪趣味なように思えた。
「ええ、わたくしも、楽しみにしておりますわ。」
ルシアは、女王の顔を崩すことなく、静かな笑みを浮かべた。
玉座の間は、表面上は、和やかな歓楽に包まれている。嵐の前の静けさと、なるのだろうか。
エドワードは、皇帝としばし語らうルシアの背を、黙然と見守っていた。
三人が滞在先のホテルに着いたときには、すでに夕闇が迫っていた。黄昏に滲む帝都は、黄金色に煌めいている。
エドワードは、ルシアの向かいに腰掛けて、遅いティータイムの相伴に預かっていた。
「お疲れ様でした、ルシア様。」
ハイヒールを脱ぎ捨てて、ビロード張りのソファーにぐったりと身を沈めたルシアに、サミュエルが、お茶のおかわりを手渡す。
「移動もあったし、話も長いし、本当に疲れちゃったわ。」
ルシアは、サミュエルを見上げると、疲弊しきった顔で、眉根を寄せた。
「今日は、もう予定もないですし、ゆっくり出来ますよ。ここの食事、美味しいって評判らしいです。」
エドワードは、ルシアを元気づけるように、殊更明るく微笑んだ。
何せ、サミュエルが近習と相談して、手配したホテルである。
外遊で疲れたルシアが、せめて快適に過ごせるようにと、料理には一家言のあるサミュエルが、こだわって選んでいた。
「あら、それは楽しみね。」
「ええ。今宵の食事くらいは楽しんでくださいませ。明日は、博覧会の視察がございますので。」
サミュエルは、ようやく眉間の皺を解いたルシアに、優しく目を細めた。
我が兄ながら、隅々まで心遣いが行き届いている。こういうサミュエルの細やかさは、尊敬の念を抱くしかない。
「メルキュリー伯と合流するのも、明日で良いのよね?」
ルシアは、ふと思い出したように、問いを口の端に乗せた。
今回の博覧会に合わせて、案内役として、植物学の権威であるメルキュリー伯爵アーサー・ボールドウィン卿が、同行することになっている。
ルシアの見聞を広げるのに役立つからと、ウォルターから推薦があったのだ。アーサーは、ウォルターの実兄に当たる。
「はい。明朝、博覧会の前に、こちらにいらっしゃる予定です。」
アーサーは、ルシアの母であるアレクサンドラ王妃と、植物学を通じて、懇意にしていたという。
彼に会うたびに、ルシアは、母の思い出話を聞くのを楽しみにしている。
「お母様の話、また聞けるかしら。」
言葉を紡ぎながら、ルシアは、うとうとと舟を漕ぎ始めた。
長旅で、余程、疲れていたのだろう。
「……ええ。きっと。」
滑るように穏やかな眠りの淵に落ちたルシアに、サミュエルは、ブランケットをかけながら、優しく囁きかける。
その横顔は、今まで以上に、深い慈しみに満ちていた。
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