020_貴方の為のセレナーデ
澄み渡る蒼穹が、眩い夏の日を彩っていた、湧きあがる入道雲の向こう側で、晩夏の陽光は、地面に影を落としている。
夏の盛りを過ぎた王宮の裏庭には、心地よい風が吹いていた。
草花の薫香は、夏の熱気で、ふわりと立ち上っている。
木陰に設えられたティーテーブルに着いたルシアは、緑の香りを深く吸い込んだ。
まだ、彼女は、これから起こることを知らない。
ルシアに気取られないように、サミュエルは、幹の太い木の後ろから、ルシアとエドワードの動静を見守っていた。
「サミュエルは、何処へ行ったの?」
いそいそと紅茶を淹れるエドワードを顧みて、ルシアは不思議そうに小首を傾げた。
「え、ええと。……では、これより、ルシア様のための、演奏会を始めます。」
エドワードは、咳払いをひとつすると、緊張した面持ちで、ぎこちない声を上げた。
「演奏会?」
ルシアは、きょとんとした顔で、亜麻色の瞳を瞬かせた。
「最近、ルシア様に元気がないからと、エドワードが企画したのですよ。私の素人演奏で恐縮ですが、どうぞ、お付き合い下さい。」
サミュエルは、木の陰から顔を出すと、一歩前へ進み出た。
本来は、自分の演奏など、女王たる彼女の耳に入れるような音色ではない。
それでも、ルシアには、笑っていて欲しい。すこしでも、慰めになるならば、いくらでも奏でよう。
サミュエルは、一礼してから弓を取ると、静かに楽器を構えた。
奏でるのは、春のように朗らかなソナタだ。本来は伴奏付きの曲だが、彼女を元気付ける一曲目としては、これが一番ふさわしいだろう。
柔らかなヴァイオリンの音色が、夏の青空を滑っていく。明るい旋律は、朗らかに、裏庭に響き渡った。
「スプリングね。わたくし、この曲とても好きよ。」
演奏が終わるや、ルシアは控え目に拍手をしながら、にこりと微笑んだ。
「それは何よりです。では、次は、無伴奏ヴァイオリンソナタを一曲。」
伸びやかな高音から、歌うような低音へ。ピチカートを交えながら、異国の風情の漂う田園へと向かう。ヴァイオリンの技巧を集めた難曲だが、だからこそ、弾き甲斐がある曲だ。
緩やかな田舎の景色を過ぎれば、軽やかな踊りが幕を開ける。
ヴァイオリンの激しくも甘い音色に、ルシアはじっくりと聴き入っていた。
「サミュエル、素晴らしい演奏だったわ! 何だか、旅にでも出た気分よ。」
ルシアは立ち上がると、盛大な拍手を送ってくれた。
「お褒めに預かり恐縮です。では、最後にもう一曲。リクエストは、ありますか?」
サミュエルは、深々と頭を垂れた。
そんなに喜んでもらえたなら、難曲に挑戦した意味もある。
「そうね。セレナーデが聴きたいわ。」
「かしこまりました。」
これは、意外な選曲だ。セレナーデは、愛おしい人を讃える曲である。
ルシアなら、てっきりもっと明るくて、楽しそうな曲を選ぶと思っていた。
サミュエルは、内心の動揺を押し隠しながら、静かに弓を構える。
甘く、囁きかけるように、温かく、抱き寄せるように。サミュエルは、穏やかに弓を滑らせていく。
あの夜の出来事は、ルシアにとっては、悪夢だったに違いない。それまでが楽しかった分、尚更だろう。
冷たい雨の降りしきる夜の記憶を、拭い去ってしまいたい。
サミュエルは、ヴァイオリンの音色に、その一心を込めた。
甘やかな旋律が、緑の間を吹き抜けていく。
「優しい曲ね。ちょっとサミュエルみたいだわ。」
ルシアは、柔らかな笑みを浮かべると、拍手をしながら、ちいさく零した。
「私みたい、ですか?」
サミュエルは、騒ぎ始めた胸を無視して、意外だというように眉を上げてみせた。
「あの時は、その。わたくしも、大人げなかったわ。あれでは、サミュエルに子供扱いされても仕方ないもの。」
ルシアは、すこしだけ言い淀むと、悄然と目を伏せた。
「ルシア様には、子供扱いと感じられてしまっていたのですね。……ルシア様。私は、あなた様のことを、女王である前に、ひとりの大人の女性だと思っていますよ。だからこそ、あの時は心配で、言葉が過ぎてしまったのです。改めて、非礼をお詫びいたします。」
彼女の口から聞くと、心がずきりと疼く。
彼女が謝る必要などないのだ。傷つけてしまったのは、他でもない自分なのだから。
サミュエルは、額ずくように、深く頭を下げた。
「もういいの。もういいのよ、サミュエル。あなたの気持ちは、伝わりましたから。だから、いつも通りにしてちょうだい? 何だか最近、よそよそしくって寂しいのよ?」
ルシアは、懸命に首を横に振ると、わざとおどけたように付け足した。
「ありがとうございます、ルシア様。あなた様に寂しい思いをさせては、騎士の名折れですね。」
サミュエルは、安堵と共に、ちいさな笑声を零した。
滲むような喜びが、胸に広がる。
胸の鼓動は、しきりに早鐘を打っているが、気付かないふりをした。
「サミュエル、エドワード、今日は、わたくしのためにありがとう。独り占めなんて、とても贅沢な演奏会だったわ。また、聴かせて下さるかしら?」
ルシアは、二人の顔を見回すと、満面の笑みを浮かべた。
「ええ。お望みとあらば、いつでも。」
この笑顔が、自分は、ずっと見たかったのだ。
サミュエルは、熱くなった胸を、ぎゅっと抑えた。
これからも、傍らで、彼女の笑顔を守っていこう。いつか羽ばたいていってしまうとしても、その時までは、悲しい思いをさせたくはない。
サミュエルは、ルシアの眩い笑顔に、口元を綻ばせた。
晩夏の空は、抜けるように青く広がっている。それはとても、ルシアの笑顔に似ていた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?