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019_慰め

 群青の空に、入道雲が柔らかさを添えている。夏の日差しは、すこしずつ穏やかになって来ていた。

 ヴェラでの二週間の休暇は、ルシアにとって、胸の奥に深い爪痕を残したことだろう。

 それでも、時間というものは、無常にも、あっけなく過ぎていく。秋の気配は、もう、すぐそこまで近づいて来ている。

 エドワードが、騎士団長の執務室の扉を開くと、ウォルターが、いつものように細葉巻をふかしながら、迎えてくれた。

「報告書は読んだよ。陛下にとっては、悪い意味で忘れがたい休暇になってしまったようだね。」

 ウォルターは、深い溜息と共に、紫煙を吐き出した。

 その声音には、悔しさと、嘆きがにじみ出ている。

「はい……。ルシア様……陛下は、あれから元気がなくて……。」

 普段通りに振舞ってはいるが、時折、ルシアは、悲しげな顔で遠くを見るようになっていた。

 その亜麻色の瞳には、夏の苦い思い出が、映っているのだろうか。

 エドワードは、彼女の悲しげな横顔を思い出して、眉根を寄せた。

「ただでさえお辛かろうに、裏切りにあっていたのではね……。アンブローズめ、随分な手に出てくれたものだ。」

 ウォルターは、苦々しげに歯噛みすると、短くなった細葉巻を、灰皿に押しつけた。

「ええ。」

 あの夜に気付いただけ、まだ良かったのかも知れない。もしも、深い仲になってしまってからであったなら、取り返しのつかないことになっていただろう。

「女王陛下に言い寄ってはいけない、という法もないからね。ラステラ公と縁の深いサウザンクロス侯を利用したことといい、悪辣なことを考える。」

 ウォルターは、革張りのデスクチェアにもたれると、腹立たしげに眉間に皺を寄せた。

 きっと、今回の策謀も、入念に計画を練っていたのだろう。

 ルシアが信頼する叔父のラステラ公なら、旧交のあるサウザンクロス侯爵家のバーナードを紹介しても、ごく自然だ。

 それに、彼を紹介したのがモントール公だったなら、ルシアも、気を許したりはしなかっただろう。

「しかしお手柄だったね、エドワード君。君のお陰で、気付けたのだろう?」

 ウォルターは、新しい細葉巻に火をつけると、天井に向かって吹き上げた。

 紫の煙は、渦を巻いて上っていく。

「いえ、たまたまです。」

 さすがに、報告書には、侯爵の別荘で迷子になった下りは書いていない。

 エドワードは、妙な居心地の悪さに、思わず頬を掻いた。

「何、運も実力のうちだよ。胸を張りたまえ、エドワード君。私が調べても、アンブローズとの関係までは出てこなかったからね。」

 ウォルターは、涼やかな黒瞳をエドワードに向けると、優しく微笑んだ。

「あ、ありがとうございます。」

 エドワードは恐縮のあまり、背筋をぴんと伸ばして、折り目正しくお辞儀をした。

「しかし帝国化か……。陛下は、それをお望みにはならないだろう?」

「ええ。現状、ミーティアは豊かですし、陛下は、戦争はお嫌いですから。」

 ミーティアの国土は、決して広くはない。それでも、先王ザカライア三世の御代から、内政に力を入れているお陰で、民衆の暮らしは、他国と比べても豊かな方だ。

 他の列強諸国のように、わざわざ支配地を拡大していく必要性は高くない。血で血を洗う戦争が避けられないというのであれば、尚更だ。

「先王陛下と、モントール公も、政治的に相入れなかったからね。公の目的も、そのあたりにあると見るべきか……。」

 ウォルターは、細葉巻をふかしながら、何やら思案顔をしていた。

「それにしても、革命に、帝国化、何だか一貫性がないような……。」

「そうだね。その違和感は、大切にするべきだ。何にせよ、ミーティアを揺るがすようなことを企んでいるのは、間違いないだろうがね。」

 ウォルターは、悩ましげにこめかみを指で叩いた。

「ああ、そういえば、エドワード君。」

「はい、何でしょうか、団長。」

 改まって、何事だろうか。

 エドワードは、不思議に思いながら、小首を傾げた。

「陛下は、秋になったら外遊に出られるのだろう? ブリッツベルグでは、よく用心することだ。帝国化の進んでいる国ということもあるが、モントール公の奥方は、皇帝の妹御だからね。ある種、彼の懐に潜り込むようなものだ。」

 ウォルターは、渋面で煙を吐くと、深い溜息を零した。

 確かに、その通りだろう。ヴェラでも、あんな事件があったばかりだ。

 何事もないまま、外遊が終わるとは、エドワードも思っていない。

 ことモントール公に対しては、警戒しても、し足りないくらいだ。彼と縁深い地であるならば、尚更、気を引き締めてかかる必要がある。

「お任せください。これ以上、陛下を傷つけさせたりはしません。」

 エドワードは、威儀を正して、力強く答えた。

 もう二度と、ルシアのあんな顔は、見たくない。彼女には、いつだって、溌剌はつらつと笑っていて欲しい。

「こちらでも、動きがないか調べておくよ。もっとも、尻尾を掴ませくれるとは思えないがね。君たち二人の手腕は、信頼している。存分に励んでくれたまえ。」

 ウォルターは、紫煙をくゆらせながら、優しく微笑んだ。

「ありがとうございます。」

 エドワードは、深く頭を垂れた。

 与えられた信頼に応えるべく、今は、やれることをやろう。

 エドワードは、窓の外に目を向けた。

 晩夏の優しい陽光に照らされた群青の空は、どこまでも高く、澄み渡っている。

 

 

 

 草いきれのする中庭を抜け、エドワードは、王宮の奥へと足を踏み入れた。

 近衛騎士として、普段から務めを果たすのは、こちらが多い。

 エドワードがルシアの執務室の前に戻ると、サミュエルとバーニーが、神妙な面持ちで警備を務めていた。

「戻りました。ありがとう、バーニー。急な呼び出しだったから。」

「良いって、良いって。じゃあ、オレは戻るね。」

 バーニーは、人好きのする笑みを浮かべると、手を振りながら、足早に去っていった。

「エディ、団長は何と?」

 バーニーの後ろ姿が見えなくなってから、サミュエルは、短く問いを発した。

「ブリッツベルグでは、よく用心するようにって。団長も、あちらに動きがないか、調べておいて下さるみたい。」

 エドワードは、ウォルターの話を掻い摘んで説明した。

 ウォルターの調査で、未然に防ぐことが出来ればいいが、ウォルターも言っていたとおり、相手は、中々手の内を見せない。何かしら起きると想定して、動いた方が良さそうだ。

「モントール公は、執念深いからね。」

 サミュエルは、それだけ呟くと、得心のいったように頷いた。

 その横顔は、どこか苦しげで、心ここに在らずといった風だった。

「ルシア様もだけど、兄様、最近何かあった?」

「うん? 私かい? これといってないけどね。どうしたんだい、急に?」

 サミュエルは、心当たりなどないという顔で、不思議そうに小首を傾げた。

「何もないのなら良いんだけど……。ちょっと最近の兄様、変だから。」

 仕事はいつも通りこなしているが、サミュエルは、近頃ぼんやりしていることが増えていた。それに、どことなく、わざとルシアとの距離を取っているような気がしてならない。

「それは心配をかけたね。ヴェラでの一連の騒動について、つい考えてしまうからかな。」

 サミュエルは、困ったように頬をかくと、ぎこちない笑みを浮かべた。

 きっと、サミュエルも、色々と思うところがあるのだろう。

 何せ、実際に白面騎士団とやりあったのは、サミュエル本人だ。

「それだけなら良いけど……。ルシア様も、最近、元気がないから。」

「あんなことがあったのではね。何か気晴らしになるようなことでも、あれば良いのだけれど。」

 サミュエルは、首肯すると、思案するように腕を組んだ。

 何か、ルシアのために出来ることはないだろうか。遠出をするのは難しいから、ささやかでも、王宮でやれることが良い。

 エドワードは、目を閉じて、しばし考えを巡らせた。

「……あ、そうだ。」

 エドワードは、目を開くと、ぽんと手を打った。

 これなら、ルシアの気も、すこしは紛らわすことが出来るのではないだろうか。

「何か、良いアイデアでも浮かんだかい?」

「はい! ティータイムの時にでも、ちょっとした演奏会をしたらどうでしょうか。兄様が、ヴァイオリンを弾いたりして。」

 自分は、演奏こそ出来ないが、暇を見つけては、演奏会へ赴いたり、レコードを聴いたりしている。自分で言うのも何だが、耳だけは良い方だ。

 エドワードが知る限り、サミュエルの奏でるヴァイオリンの音色は、プロに引けを取らないほど、澄み渡っている。

 何より、一度サミュエルの演奏を聴いてみたいと、以前、ルシアが零していたことがあった。これならきっと、喜んでもらえるだろう。

「なるほど……。良いかも知れないね。素人演奏だけれど、すこしは、お慰みにもなるだろう。」

 サミュエルは、すこし考えてから、首を縦に振ってくれた。

「なら早速、今日のティータイムにやりませんか? 善は急げと言いますし。」

 この機を逃せば、サミュエルの演奏を、ルシアに聴かせることが出来ないかも知れない。

 エドワードは、前のめり気味に、サミュエルの裾を引いた。

「……分かったよ。それまでに、楽器の用意をしておく。」

 サミュエルは、すこし困ったように微笑むと、深く頷いた。

 エドワードは、にっこりとした莞爾を返す。

 夏の空は、どこまでも青く澄んでいる。ルシアの笑顔も、負けないくらいに輝いたら良い。

 エドワードは、降り注ぐ陽光に、わずかな希望を見出した。

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