018_激情
瀑布のような轟音を響かせながら、雨の雫が、夜を蹴りつける。
それに反するように、サミュエルの心は、燃え盛る業火に焼かれたようだった。
咳上げる怒りだけだ、この足を動かしている。
今頃、ルシアは、この雨のように、咽び泣いているだろう。純粋な彼女を傷つけた者を、野放しになど出来るものか。
ぬかるみに足を取られ、雨に視覚を奪われても尚、サミュエルは、厩舎に向けてひた走った。
この程度のことなど、こみ上げる激情の前には、障害ですらない。
サミュエルが厩舎を視界に捉えたとき、不意に、馬の嘶きと、水を切る車輪の音が響いた。
どうやら、あちらは、馬車で逃げるつもりらしい。
サミュエルが厩舎に辿り着くと、濛々と水煙を上げて、馬車が走り去っていくところだった。
さすがに、足で追いつけはしないだろう。
サミュエルは、厩舎に滑り込むと、さっと辺りを見回した。
壁には、上等な鞍が掛けてある。きっと、侯爵の乗馬用のものだろう。
「君、走ってくれるかい?」
サミュエルは、厩舎に残された白馬の鼻筋を優しく撫でた。
白馬は、同意を示すように、サミュエルの掌に顔を寄せる。
サミュエルは、手早く鞍を馬につけると、ひらりと跨った。流れるように、両脚で、白馬の腹を蹴る。
白馬は、合図に合わせて、滑らかに歩き始めた。
ぬかるんだ道に残された轍の跡は、西に向かって延びている。
篠突く雨に遮られ、視界は、ほぼ遮られている。そんなことで、足を止める訳にはいかない。
サミュエルは、決然と前を向くと、拍車を掛けながら、徐々に速度を上げていった。
いったい、どれくらい駆けただろうか。
雨に打たれた身体は、ずっしりと重たくなっている。夏だというのに、寒気を感じる程だ。
サミュエルは、濡れて滑る手綱をしっかりと握り直すと、闇夜に目を凝らした。
ようやく、煙るような雨の向こうに、朧な馬車の後ろ姿を捉える。
「ちっ。追いついてきたか!」
御者を務める赤毛の使用人は、ちらりとこちらを振り返ると、苦々しく吐き捨てた。
「これでも騎士なのでね!」
サミュエルは、ぐんと速度を上げると、ついに馬車の隣に並んだ。
「王立騎士団……!」
赤毛の使用人は、恨みがましく歯噛みする。
サミュエルは、冷静に、状況を窺った。
馬車との並走は、そう長くは続けられない。このままでは、再び抜き去られて逃げられるのがおちだろう。
だが、幸い、ここは開けた道だ。
サミュエルは、間髪入れずにホルスターから銃を抜き放つと、馬車の手綱を狙って、弾丸を撃ち込んだ。
銃声が、火花と共に、雨を切り裂く。
寸分違わず穿たれた手綱が、宙を舞った。
コントロールを失った馬車は、派手に水飛沫を上げながら、路肩に乗り上げる。
「やってくれるじゃないか。」
赤毛の使用人は、口惜しそうにサミュエルを睨み据えると、腕まくりをしながら降りてきた。
筋肉質な腕は、ただの使用人のそれとは思えない程に鍛え上げられていた。その手には、鈍く光る剣が握られている。
刹那、使用人は、地を蹴ってサミュエルに殺到した。
サミュエルは、腰に佩いた剣を抜き、咄嗟に斬撃を受け止める。
想像していた以上に、その一撃は重い。
サミュエルは、辛くも相手の剣を受け流すと、いったん間合いを取った。
用心棒かとも思ったが、そんなものではない。彼の動きは、鍛え抜かれた騎士のそれだ。
「白面騎士団員か、君は。」
「随分、勘の鋭いことで。道理で、アンブローズ様が警戒する訳だ。」
思いのほか、潔い男のようだ。今更、隠し立てる気もないらしい。
「君は、何のために侯爵を守っている?」
「そんなこと、答える義理はない!」
サミュエルの問いかけに、男は、斬撃で答える。
正面から力で押してくる堂々とした攻め筋に、サミュエルは、心当たりがあった。
「君の名前を、当ててみせようか?」
サミュエルは、剣をはじき返すと、煽るように笑みを浮かべた。
「言ってみなよ、優男。」
赤毛の男は、体勢を立て直すと、小馬鹿にするように手招きをする。
「ハワード。ハワード・マクガレン。三年前の、馬上槍試合以来だね。まあ、顔を見るのは初めてだが。」
白面の下から覗く、血走った緑の目を、今でもよく覚えている。
「記憶力いいねえ、あんた。」
ハワードは、驚いたように眉を上げると、からかうように口笛を吹いた。
「それはどうも。」
「サミュエル・オルブライト。あんたとは、もう一度勝負がしたかったところさ。首を取るのが、任務ではないのは残念だが!」
ハワードは、下段に構えると、勢いよく剣を振り上げた。
サミュエルは、飛び退ってそれを躱すと、すかさず横一線に薙ぐ。
ハワードは、サミュエルの一撃を、寸でのところで仰け反って避ける。
赤い髪が、はらりと宙に舞った。
「これはどうかな?」
サミュエルは、剣を上段に構えると、膂力の限りに振り下ろした。
ハワードは、一歩前へ踏み出すと、あえて正面から受け止める。
雨でぬかるんだ夜道に、金属の軋む音が響き渡った。
長時間の競り合いになれは、分が悪いかも知れない。
サミュエルは、腕が痺れる重さの剣を受け止めながら、一計を案じた。
ハワードの力を受け流し、サミュエルは、ぐんと剣先を下げる。その勢いに任せて、くるりと剣を返した。
刃のぶつかり合う鋭い音が、雨を引き裂く。
跳ね上げられたハワードの剣は、持ち主の手を離れると、回転しながら、濡れた地面を滑っていった。
「くそっ!」
武器を失ったハワードは、舌打ちをしながら、剣に駆け寄った。
この慌てぶりは、他に武器を持っていないと見て間違いない。
サミュエルは、すかさず左手で銃を抜くと、剣を狙って弾を撃ち込んだ。
「チェックメイト、かな?」
サミュエルは、踵を返してハワードの後ろに回り込むと、後頭部に銃口を突き付けた。
「さすがに強いねえ、副団長ともなると。」
ハワードは、動じるでもなく、へらへらと笑い声を上げる。
「だが!」
ハワードは、反転して振り返ると、掌底の一撃で、サミュエルの左腕を跳ね上げた。
寸毫の隙を突いて、ハワードは、転がるように前へ出る。
「計画は破綻、もうこの任務は、終いなんでね!」
ハワードは、それだけ叫ぶと、侯爵を置き去りに、夜陰に紛れて消えてしまった。
「やれやれ、逃げ足の速いことだ。」
こんなところで取り逃がすとは、不覚にも程がある。
サミュエルは、溜息をひとつこぼすと、静止した馬車の方に足を向けた。
まだ、もうひとり残っている。
サミュエルが馬車の扉を開くと、バーナードは、両膝を抱えて震えていた。
普段の堂々とした振る舞いからは、想像のつかない怯えようである。いっそ、憐れなほどだ。
「閣下。あなたのせいで、ルシア様は、今頃泣いておられるでしょう。何のために、誰に頼まれて、ルシア様に近付いたのです?」
彼に憐みを掛けられるほど、自分は、お人好しではない。
咳上げる怒りを噛み殺して、サミュエルは、静かに問い掛けた。
「わ、私はただ……。純粋に、ルシア様と……。」
混乱した侯爵は、今にも消え入りそうな声を絞り出した。
「御託は結構。本来の目的は、何ですか?」
そんな表面的なごまかしなど、求めていない。
サミュエルは、眉間に力を込めると、バーナードの両眼をじっと見据えた。
「す、全ては、ミーティアの未来のためだ! 帝国になれば、もっとずっと豊かな国になれる。私が側にいれば、慎重な彼女も、首を縦に振るかも知れないだろう!」
逃れられないと観念したのか、バーナードは、掠れた声を張り上げた。
「それは、議会で働きかけるのが筋でしょう。何故、わざわざこんなことを?」
喉が、臓腑が、灼けつくようだ。
己の野心のために、この男は、ルシアの心を踏みにじったというのか。
「ルシア様は……彼女は、美しい。その上、女王陛下であらせられる。そんな彼女の伴侶になれれば、この国を変えられると思って……。」
サミュエルの瞳には、情けなく言い繕う男の姿が映っている。
バーナードは、呂律の回らない舌を、懸命に動かしていた。
しどろもどろではあるが、なかなか、肝心のことを口にしない。
「アンブローズ・ヒースコートとは、どういうご関係で?」
サミュエルは、苛立ちを押し殺しながら、バーナードに詰め寄った。
「あ、アンブローズとは……と、友達、だよ。」
侯爵は、言葉を濁すと、どこか後ろ暗そうに視線を逸らした。
恐らくは、ただならぬ関係なのだろう。享楽的なアンブローズを思えば、容易に想像出来る。
「此度の一件は、アンブローズの指示で、なさったことですか?」
サミュエルは、冷たく硬い声音で、バーナードに問いかけた。
「か、彼は、背中を押してくれただけだ! 私こそ、ルシア様に相応しいと。」
「あの男とのお付き合いは、閣下の為になりませんよ。まあ、個人の自由ではありますが。」
恐らく、もうアンブローズは、彼に興味を持たないだろう。
コリン・フォレットのように切り捨てなかったのは、彼が、地位のある人間だからというだけに過ぎない。
葬られなかっただけ、バーナードは、幸運に感謝するべきだ。
「あ、アンブローズは、悪くないんだ。応援してくれただけで……。」
バーナードは、訴えかけるように手を差し伸ばすと、震え声で、アンブローズを擁護した。
彼は、あの男の一面しか見ていないのだろう。アンブローズは、狡猾に人の心に入り込むのが、よほど巧いらしい。
「貴方の罪は重い。あの方を傷付けた。私は、それが許せない。」
これ以上口にすれば、きっと自分は、感情を抑えきれない。
サミュエルは、路肩に留まった馬車からバーナードを連れ出すと、彼を白馬の背に乗せた。
「……私は、決して許さない。」
他の誰が許しても、忘れることはないだろう。
サミュエルの低い呟きは、雫に押し流される。
驟雨は、二人の上に、重苦しい沈黙を齎した。
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