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022_寸毫

 秋の蒼穹そうきゅうは、どこまでも高く、抜けるように澄み渡っている。吹き渡る風は、会場の熱気を乗せて、賑わいに花々の香りを添えていた。

 皇帝の宮殿から程近いエヴォルツィオーンプラッツには、ブリッツベルグ有数の名工の設計によるパビリオンが、競うように並んでいる。

 中央にそびえる豪奢な時計塔は、この帝国博覧会の目玉だ。文字盤には三百枚以上の色ガラスがステンドグラスのように嵌め込まれ、日の光を浴びて、宝石のように煌めいている。機械仕掛けの時計塔の鐘楼は、時が来れば、荘厳な音色を響かせるらしい。

 サミュエルは、賑わいを見せる人群に目を配りながら、エドワードと共に、視察して回るルシアに付き従っていた。

 科学館の一角に設えられたガラス張りの温室は、見た目にも華やかな南方の植物で溢れている。広さもさることながら、植物に合わせて、温室の中に池までこしらえてある凝りようだ。

「メルキュリー伯、あれは何ですの?」

 ルシアは、池のほとりの柵に身を乗り出して、水面に浮かぶ大きな葉を指差した。

「あれは、オオオニバスですな。熱帯に生息する、巨大な蓮子ですよ。葉の浮力が強くて、子供が乗っても沈まないのです。陛下ほど華奢な方なら、大人でも乗れるかも知れませんね。」

 ルシアの問いかけに、メルキュリー伯爵アーサー・ボールドウィン卿は、鉛筆のような長駆を屈めて答えた。

 茶色がかった黒髪をゆったりと後ろに流した博士の横顔は、どことなく、ウォルターを思い出させる。

「世界には、まだまだわたくしの知らないことが多いですわね。いつか、自生しているものも、見てみたいですわ。」

 ルシアは、満足げに微笑むと、遥か南の地に思いを馳せるように目を伏せた。

 彼女が楽しげなのは良いことだが、見守る側としては、気が気ではない。

「こんなに立派な葉ですが、夕方から夜にかけて、可憐な白い花を咲かせるのですよ。朝に向けてゆっくりと桃色に変わる様は、それは美しいものです。」

 アーサーは、品の良い笑みを浮かべると、金縁眼鏡のブリッジを押し上げた。

「まあ、素敵! お母様も、その花を見たのかしら?」

「いえ、写真はお見せしましたが、実物は、ご覧になっていなかったかと。ただ、オオオニバスの話をした時には、今の陛下のように、目を輝かせていらっしゃいましたよ。」

 アーサーは、無邪気にはしゃぐルシアを見つめながら、懐かしむように頬を緩めた。

 ルシアに、アレクサンドラの面影を重ねているのだろうか。

「お母様にも、見せて差し上げたかったですわ。……こっちは何かしら?」

 話をしている間にも、ルシアの興味は、次へと移る。ルシアは、華やかな赤い葉を茂らせる植物を指差して、アーサーの袖を引こうとした。

 このまま放っておけば、いつか駆け出していってしまいかねない。

「……ルシア様、例の件をお忘れなきよう。」

 サミュエルは、アーサーに聞こえないよう、ルシアの耳元で囁いた。

「分かっているわ。……でも、珍しいんだもの。メルキュリー伯の解説も魅力的だし。」

 窘められて、ルシアも、ばつが悪そうに小声で返した。

 彼女にも、ついはしゃいでしまった自覚はあるのだろう。

「せめて、我々から離れぬよう、お願いいたしますね。」

 王宮に籠りきりだった彼女が、異国の植物に興味を引かれるのは、無理からぬことだ。

 決まりが悪そうに手を引っ込めたルシアに、サミュエルの頬は、つい緩んでしまう。

 我ながら、随分と彼女に甘くなったものだ。今までなら、こうはならなかっただろう。感情とは、本当にままならない。

「そういえば、午後からは、競馬が催されるのでしたかな。」

 二人のやり取りを知ってか知らずか、ふと、アーサーがこちらを振り返った。

「はい、午後二時からになります。」

 今日は、この博覧会の開幕を記念して、皇帝主催でレースが執り行われる。

 機を見計らったように、規律的な時計塔の鐘の音が、ガラス張りの温室を揺らした。

 そろそろ、昼餉の時間だ。主賓のルシアに、遅刻をさせるわけにはいかない。

「わたくし、実は楽しみなのですよ。殿方は夢中になっていらっしゃるけれど、わたくしは、まだ見たことがないのです。」

 ルシアは、アーサーの方に向き直ると、楽しげに、胸の前でぽんと両手を打った。

「それはそれは。きっと、陛下にとって、良い体験になるかと思いますよ。」

 アーサーは、すらりと細い長駆を屈めて、優しく微笑んだ。我が子ほどに年の離れた女王に対し、礼節を持って応じる。

 和やかな歓談の傍らで、サミュエルは、ウォルターからの手紙を思い出していた。

 白面騎士団が仕掛けてくるならば、レースの時だろう。手紙には、そう記されていた。

 恐らく、その推察は、間違っていないだろう。そんな気がしてならない。

 サミュエルは、騒ぎ始めた胸の内を気取られぬよう、表情を引き締めた。

 温室のじっとりとした暖かさに紛れて、肌が粟立つような不穏な気配が、ゆっくりと近づいてきている。

 

 

 

 眩い陽光の下で、鼓笛隊のトランペットが輝いている。

 競技場のスタンドには、栄えあるレースを目に焼き付けようと、貴賎を問わず、大勢の人々が詰めかけていた。喧騒と勇壮なマーチで、会場は、熱狂に包まれている。

 人々の歓楽を尻目に、サミュエルは、ルシアの隣で、じっと周囲に目を光らせていた。これだけ大勢が集まっていれば、何者が紛れていてもおかしくはない。

「思っていた以上の賑やかさですわね。」

 当のルシアは、呑気のんきにきょろきょろと辺りを見回していた。

「ええ、この規模のレースは、私も初めてですがね。いやはや、大盛況ですな。」

 賑わいを見せる会場の空気に、エドワードの隣に腰掛けたアーサーも、心なしか浮かれているように見える。

 学問と騎士道、身を捧げたものは違っても、根の部分は、やはりウォルターと似たところがあるらしい。

 やがて、鼓笛隊の演奏が、ぴたりと止んだ。

 観客は息を呑み、スタンドは、水を打ったようにしんと静まり返る。

 いよいよ、開幕の時間だ。

 静寂に、ドラムロールが響き渡る。華やかなファンファーレを共連れに、ランプレヒト二世が、太鼓腹を揺らしながら、満を持して登壇した。

「本日は、栄えある帝国博覧会にようこそ! 我が帝国の文化と技術の髄は、如何だったかな。これより、博覧会の開催を記念して、レースを執り行う。いずれも我が帝国の誇る名うての騎手ばかりだ。このレースの優勝者には、帝国一の騎手という栄誉が贈られる! さあ、誰が栄光を勝ち取るか、その目にしかと焼き付けてくれたまえ!」

 皇帝の挨拶に、喝采と熱狂が、会場を埋め尽くした。

 それに続いて、馬場に、続々と騎手が登場する。一斉にゲートに並んだ馬達は、遠目に見ても名馬揃いと分かるほどだ。

 ランプレヒト二世が自席に着くと、再び、鼓笛隊のドラムロールが鳴り響く。リズムに合わせて、律動的な動きで、筒を提げた号砲係が進み出た。

 ついに、レースが始まるらしい。

 サミュエルは、念入りに周囲に視線を走らせた。

 やがて、ドラムロールが止み、号砲係が銃を掲げる。

 刹那、鼓笛隊の辺りで、何かが煌めいた。

 あの鈍い輝きは、シンバルのものではない――。

「ルシア様!」

 爆ぜるような号砲と同時に、サミュエルは、咄嗟にルシアを押し倒した。

 灼けつくような痛みが、左腕に走る。

「サミュエル……?」

 腕の中で、ルシアが、怯えたようにこちらを見上げていた。彼女には、傷ひとつない。

 椅子に穿うがたれた銃痕は、一瞬でも遅れていれば、ルシアの心臓を射抜いていたことを示している。

 サミュエルは、ほっと溜息をついた。だが、今は、胸を撫で下ろしている場合ではない。襲撃犯を、逃すわけにはいかないのだ。

 鮮血のほとばしる腕を押さえて、サミュエルは、鼓笛隊の後ろに目を凝らす。

 鼓笛隊の後方から、目深にフードを被った人物が、大慌てで走り去っていく。 

「エディ、三時の方角だ!」

「分かった。」

 サミュエルが短く叫ぶと、エドワードは、疾風のように素早く駆け出していった。

 号砲の音で銃声を隠すとは、確かに良い手だ。観客達も、ゲートを注視していたから、狙撃手の顔なんて覚えていないだろう。

 今は、追っていったエドワードが、頼みの綱だ。ルシアを狙った不届き者を、野放しにはしておけない。

「ルシア様、お怪我は、ありませんね?」

「ええ。ええ。ないわ。でも、サミュエル……。」

 ルシアは、サミュエルの問いかけに頷くと、狼狽えたようにサミュエルの左腕を見た。

「あなた様が無事なら、それで良いのです。」

 この程度の痛みなど、瑣末さまつなことだ。ルシアの身に何かがあったなら、自分は、どうなっていたか分からない。

 競技場に釘付けだったはずの人々の視線は、今やこちらに向けられている。

 にわかに騒がしくなった群衆とは対照的に、駆け出したはずの馬の蹄の音は、だんだんとちいさくなっていった。

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