010_代償
黄昏時の茜は、どこか鈍い色をしていた。
日の終わりはどんよりと重く、街の上にのしかかる。
エドワードは、サミュエルの隣に腰掛けると、向かいに座っているシャウラ男爵――ブライアン・ヒースコートと向き合った。
男爵は、どこか緊張したような面持ちで、身をすぼめている。
「お話しがあると仰っておられましたが……。」
サミュエルは、紅茶を一口啜ると、早速話を切り出した。
エドワードも、書き漏らさないようペンを構える。
「はい、実は……。革新派に、ジャックを紹介したのは、私なのです。」
ブライアンは、俯きながら、訥々と答え始めた。
「お恥ずかしい話、領地の経営が、上手くいっておりませんでね。あれは、二月頃でしたか。たまには気晴らしにと、バーで一杯引っかけていたのです。」
虎落笛の吹く寒空の下、ブライアンは、肩を落として歩いていた。
無理もない。返済のあてもない新興貴族に、誰が金を貸すというのか。
それでも、領民のためには、諦めるわけにはいかない。
「せめて、私にもうすこし、才能があれば良かったんだろうが……。」
ブライアンは、白い溜息をついた。
自分は、騎士の家に生まれながら、ついぞ剣を握ったことがない。生来気が弱く、弟のアンブローズのように、勝負に挑むなんて出来なかった。
両親は、自分が家を継がなかったことを、責めたことはない。むしろ、騎士にならなかった自分を、応援してくれたくらいだ。
モントール公爵領で騎士になったところで、貴族でもない自分たちが、栄達することはない。きっと、両親には、そんな諦めもあったのだろう。
自分は自分で、細々とやっていければいい。そう思っていた自分にとって、爵位を賜ったことは、まさに青天の霹靂だった。
アンブローズが、公爵に気に入られているのは知っていたが、まさか、弟を騎士団長にするためだけに、自分が貴族の末席に加わることになるなんて、いったい誰が想像出来ただろう。
弟のおこぼれで貴族になった身だとしても、領民がいる限り、責任は果たさねばならない。それさえも、自分のような非才な男には、どうやら難しいらしい。
ここ数年、領地内では不況が続いている。失業者が増えるにつれ、治安も悪化する一方だ。モントール公から借り受けた騎士団だけでは、とてもじゃないが手が足りない。増員したいのは山々だが、そうするだけの元手はなかった。
金策に走っても、こうやって、断られてばかりいる。
重たい足を引きずって歩くブライアンの目に、ふと、ぽつりと明かりの灯った店が飛び込んできた。
たまには、憂さ晴らしに、一杯やるのも良いかもしれない。
ブライアンが、バーの扉を開けると、思いのほか繁盛していた。混み合った店内に、空いている席と言えば、カウンターくらいである。
「すみません、ジンを。」
ブライアンは、カウンターの隅に腰掛けると、安いジンを一気に呷った。
こういうときは、きつい酒に限る。鼻を抜けるジュニパーの香りが、沈んだ気分を宥めてくれるような気がした。
「……隣、いいですか?」
「え、はい。どうぞ。」
ブライアンが顔を上げると、控えめに首を傾げた青年が立っていた。金糸の髪は柔らかく、白皙の肌を、否応なしに引き立てる。深い瑠璃色の瞳は、儚げな光を放っていた。
ブライアンが陶然と頷くと、青年は、静かに隣に腰を下ろす。
ジャック・ステイシーと名乗った青年と、ブライアンは、他愛もない会話を交わしながら、杯を重ねた。
若いのに、最近商会を立ち上げたというジャックと、ブライアンは、バーで会う度に、お互いの悩みについて語り合う仲になっていった。
彼との語らいは、いつだって心が安らぐ。いつしか、ジャックと会うのが、ブライアンの楽しみになっていた。
気さくで、前向きなジャックとの間に、友情が芽生えてきた、そんな頃だったろうか。
「ねえ、ブライアン。実はね、僕、革新派には、前から共感してたんだ。でも、つてがなくてさ……。もし、君が嫌でなかったら、僕も連れて行ってくれないかな。」
ジャックの言葉に、ブライアンは二つ返事で頷いた。
友人が、自分の思想に共感してくれたことが、何よりも嬉しかった。
それから、ジャックは、革新派の集会に参加するようになった。彼は、持ち前の社交性で、あっという間に周りと打ち解けていく。
数度の集会を通じて、ジャックは、革新派の中枢ともすっかり懇意になっていた。末席にいるに過ぎない自分と、ジャックの距離は、自然と離れてしまっている。
友人が遠くへ行ってしまったようで寂しくはあるが、ジャックも、自分のようなくたびれた男と語らうよりは、ずっと楽しいだろう。
ブライアンは、遠くから、友を見守ることにした。
時間というものは、驚くほどに早く過ぎ去るものである。
「もし皆様が初心を思い出し、現実を変えるための闘争に挑まれるなら、我々は、喜んで全てを捧げましょう!」
三月に入って一度目の集会で、ジャックは、高らかにそう宣言した。
群衆は、熱に浮かされたように、彼に喝采を送る。
ブライアンは、呆然と、それを眺めることしか出来なかった。
エドワードは、ブライアンの言葉を一言も逃さぬよう、懸命にペンを走らせた。紙とペン先の擦れる音が、静まりかえった部屋に、密やかに響き渡る。
「それで革新派は、革命に舵を切り、準備資金として商会側から多額の寄付を得た。……間違いございませんか。」
サミュエルは、確認するように、問いを重ねた。
「ええ。……私の知りうる限りでは、ですが。」
ブライアンは、こくりと頷くと、紅茶を一気に飲み干した。
よほど、緊張していたのだろう。
「他に、ステイシー本人や、商会に関してご存じのことはございますか?」
「いえ、ありません。ジャックとは、橋渡しをしてから、話す機会も減っておりましたから。」
サミュエルの問いかけに、ブライアンは、どこか寂しげに視線を落とした。
「なるほど。ありがとうございます、閣下。他にお話しになりたいことは?」
サミュエルは、礼を言うと、最後に念を押す。
「いえ。せめてもの罪滅ぼしに、お役に立てましたでしょうか。」
ブライアンは、静かに首を横に振ると、遠慮がちに眉根を寄せた。
「ええ。ありがとうございました。ご協力、感謝致します。」
サミュエルは、優しい笑みを浮かべると、深く頭を垂れる。
エドワードは、ペンを置くと、去りゆく男爵の背中を見送った。
彼の背には、一抹の悲しみが、旧友のように寄り添っている。
夕暮れの廊下は、どこか物悲しい。鈍い茜に染まった窓の外では、シャウラ男爵の背中が、だんだんとちいさくなっていった。
「男爵、ジャック・ステイシーの正体は、知らなかったみたいだね。」
エドワードは、窓の外を眺めながら、眉根を寄せた。
「ああ。弟との共謀の線も、なさそうだ。公が裏にいるなんて、思ってもみないだろうね。彼の領地の問題も、もしかしたら……。」
振り返ると、サミュエルは、難しい顔をしていた。
白面騎士団長は、目的のために、血を分けた兄を利用したのだろうか。
エドワードには、心の底から、アンブローズが理解出来なかった。
仮に、どんな高潔な目的のためだとしても、サミュエルを利用するなんてこと、自分は、考えもしないだろう。
「革命を起こそうとしていたことが分かったのは収穫、かな。」
「そうだね、エディ。まあ、ルシア様のお陰で、それももうないだろう。」
サミュエルは、ちいさく頷くと、ゆるりと愁眉を開いた。
革新派の代表者の身柄は、既に、ウォルターに引き渡している。
残りのメンバーも、ルシアの言葉に、感動している様子だった。この分なら、サミュエルの言うとおり、心配することはないだろう。
「問題は、やっぱり白面騎士団?」
エドワードは、考えを巡らせながら、眉宇を曇らせた。
兄を平然と利用するような男が、団長を務めているくらいだ。生易しい相手ではないことは、自分にも想像出来る。
「ああ。彼らは、一筋縄ではいかないだろうね。でも、これで、革新派をあまり気にしなくて良くなったのは大きいよ。」
ひとつ肩の荷が下りたようなサミュエルの横顔を、エドワードは、静かに見つめていた。
白面騎士団といえば、諸侯お抱えの騎士団の中でも、歴史の古い騎士団だ。その分、隊規もしっかりしている。
詳しくは知らないが、数年前に行われた馬上槍試合で、かなり追い詰められた記憶がある。手練れが多いのは、間違いない。白面騎士団との衝突は、避けられないだろう。
エドワードは、溜息ひとつ零すと、窓の外に目をやった。
水平線に沈みゆく夕日は、穏やかな時の名残を惜しむように、眩く輝いている。
オレンジ色のランプが、ぼんやりとベッドルームの輪郭を描き出していた。穏やかな明かりは、先程までの熱情を、ゆったりと鎮めてくれる。
アンブローズは、ベッドに裸体を投げ出したまま、ぼんやりと細葉巻をふかしていた。
螺旋を描く紫の煙が、甘やかな倦怠感に、華を添える。
ベッドの脇では、首筋に赤みの差したコリンが、静かにシャツに袖を通していた。
「アンブローズ様……。」
「どうした、コリン。」
項垂れながら小さな声で呼ばわるコリンに、アンブローズは、気怠げに応えた。
「此度の失敗、ぜひ挽回する機会を……!」
コリンは、すこし青ざめた顔で、切り替えるように頭を垂れた。
「挽回、ね……。」
アンブローズは、紫煙をくゆらせながら、コリンの言葉をなぞった。
彼が、現場に仮面を忘れてきただけなら、取りに戻れば挽回出来ただろう。
しかし、大事な仮面を残してきてしまったのは、王立騎士団が潜伏先に現れ、慌てて逃げてきたからだ。勘の良いウォルター・ボールドウィンなら、とっくに仮面を回収しているだろう。
無論、それは、背後に白面騎士団がいる、という証左を与えたことに他ならない。
「革新派に、革命を決行させます。そうすれば奴らだって、こちらを気にしていられなくなるでしょう。ですから……!」
必死に言いつのるコリンを、アンブローズは静かに見つめていた。
自分は、状況を楽観視することも、敵を過小評価することもない。
王立騎士団に裏倉庫を抑えられた時点で、革新派は、怖じ気づいているはずだ。
当然、王立騎士団が、革新派のクラブハウスを査察しないとは考えられない。
査察の際、我が愚兄なら、率先して、洗いざらい吐くだろう。あれは、そういう男だ。
コリンの正体に気付くことは万一にもないだろうが、革新派を動かしたのが、ジャック・ステイシーだ、とは言っているだろう。
なにより、潜伏先で、コリンは顔を見られている。ジャック・ステイシーの正体を、王立騎士団が探り当てるのは、そう難しいことではない。
「王立騎士団は、お前が思っているほど、易しい相手ではないぞ。」
「だけど! このままでは僕は、あなたに恩を仇で返すことになる! そんな、そんなの……!」
コリンは、顔を真っ赤にして、なおも抗弁する。
「革新派を動かすのは、もう無理だ、コリン。」
アンブローズは、枕にもたれたまま、溜息交じりに首を横に振った。
「ほ、他にも、きっと手は……!」
まるで、駄々をこねる子供のようだ。
この先に待つ結末を、どうしても、コリンは直視出来ないらしい。
「コリン、お前に出来ることは、なんだ?」
アンブローズは、ゆっくりと身を起こすと、細葉巻を念入りに灰皿に押しつけた。
「それ、は……。でも……。」
試すようなアンブローズの言葉に、コリンは、震えながら、視線を逸らした。
柔らかな金糸の髪が、彼の血の気の引いた白い顔を、ことさら際立たせている。
アンブローズは、散らばった服を身に纏いながら、するりとベッドから這い出した。
「分かって、くれるな?」
アンブローズは、コリンの腰に、指を這わせると、宥めるように優しくかき抱いた。
この先のことは、言葉にしなくても伝わるだろう。
なにせコリンは、騎士として、間諜として、自分が手塩に掛けて育てたのだ。
「……はい、アンブローズ……様……。」
すこしの間を置いて答えたコリンは、哀れなほどに、暗い顔をしている。
アンブローズが腕を解くと、コリンは、サイドテーブルに置かれていた銃に手を伸ばした。
「僕、アンブローズ様と過ごした日々は、幸せ、でした。」
コリンは、今にも泣き出しそうな顔で、弱々しい笑みを浮かべた。
かつてうらぶれたストリートで、彼に出会った頃のことを思い出す。
薄汚れ、全てを恨むような目をしていた少年は、ここにはもういない。長らく慈しんできた可憐な花は、救いを求めるような目で、こちらを見ている。
「私とて、お前を失うのは辛いよ、コリン。」
アンブローズは、緩やかなウェーブの掛かったコリンの髪を優しく撫でると、そう嘯いてみせた。
コリンは、意を決したように、撃鉄を上げると、銃口を自分の胸に押しつける。
決意とは裏腹に、引き金に掛けられた親指が、小刻みにがたがたと震えてしまっていた。
「怖いか?」
アンブローズは、優しく、コリンに問いかけた。
「……はい。だって、あなたのお傍に、いられなくなってしまう。」
「だが、王立騎士団が嗅ぎつけた以上は、こうするしかないのは、分かるな?」
アンブローズは、震えるコリンの耳元で、優しく囁いた。
コリンの、涙を溜めた深い瑠璃色の双眸は、宝玉のように煌めいている。
「……はい。それが、あなたのために出来る、最後のこと、ですから。」
コリンは、自分に言い聞かせでもするかのように、ゆっくりと言葉を吐いた。
言い終わるや、コリンは、引き金にぐっと力を込めようとする。それでも、恐怖に竦んだ指は、持ち主の言うことを、中々聞かないらしい。
「アンブローズ様……。僕、僕を……。」
コリンは、懇願するように、アンブローズを顧みた。彼の瑠璃色の瞳からは、ぽろぽろと大粒の涙が零れている。
「私は、お前を愛しているよ、コリン。」
アンブローズは、一歩前に進み出ると、コリンの持つ銃に、そっと指を絡ませた。
刹那、銃は、たった一度だけ、乾いた叫び声を上げる。
コリンは、ぐらりと体勢を崩すと、床に崩れ落ちた。彼の胸に、赤い血が、花びらのように滲んでいく。
「アンブローズ……さま……。」
彼の手が震えるあまり、急所を外してしまったのだろう。
コリンは、苦しげに血反吐を零しながら、焦点の合わない目で、必死にアンブローズの名を呼んでいる。
アンブローズは、彼に答えるように、生気を失っていくコリンの手から、優しく銃を奪う。
素早く撃鉄を上げると、アンブローズは、彼の心臓を正確に撃ち抜いた。
「……だが、仕事なのでね。」
硝煙の上がる銃口を擡げ、アンブローズは、事切れたコリンを睥睨した。
そのまなざしに、数刻前の熱情は、微塵も映っていなかっただろう。
誰もいなければ、仮面を付ける必要もない。
「……愛していたとも、コリン。」
――今の今までは、ね。
アンブローズは、どさりとビロード貼りの椅子に腰掛けると、もうなにも聞こえなくなったコリンに、冷たく囁いた。
「死して尚、お前は、こんなにも美しい。」
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