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012_女王の休日

 眩い日差しが、緑を青々と匂い立たせる。季節は移ろい、陽光は、意気を増していた。

 熱気に包まれた王室専用のプラットホームは、女王のためにせっせと荷を運びこむ侍従たちで溢れている。

 どことなく皆が浮き立つような顔をしているように見えるのは、これから女王の休日の共をするからだろうか。

「ヴェラへ行くのも久しぶりね。何だか楽しみだわ。」

 ルシアは、ゆっくりと伸びをしながら、サミュエルの方を顧みた。

 彼女の涼やかな亜麻色の瞳も、今日ばかりは、夏の日差しのように煌めいている。

「そうですね。ゆっくりと羽を伸ばしてくださいませ。」

 サミュエルは、頬を緩めるルシアに、ちいさな微笑みを返した。

 無理もない。何せ、今日から、ルシアが即位して初めての休暇なのだ。

 楽しげなルシアを前に、サミュエルの脳裡に、ふと、ウォルターの苦い顔が過ぎる。

 革新派の一件は、コリン・フォレットが自殺したことで、彼の単独犯行として幕引きされてしまった。

 モントール公の関与については、疑わしいものの、決定的な情報がない手前、これ以上は踏み込むことが出来ない。

 今回の休暇中に、何も起こらなければいい。だが、相手が相手だけに、警戒を緩める訳にはいかないだろう。

「ルシア様は、何がしたいですか?」

 サミュエルの心配をよそに、エドワードは、暢気に問いかけた。

「そうねえ……。あ、川へ行きたいわ! 暑くなってきましたし、久しく本物の自然には、触れていないから。」

 ルシアは、すこし考えるように首を傾げてから、ぽんと手を打った。

 先王が愛娘のために作った裏庭が、女王ルシアが日頃触れることの出来る、唯一の自然だ。普段王宮を離れる機会のすくない彼女にとって、あの場所は、重要な息抜きの場となっている。

「それは良いですね。俺も子供の頃は、近所の川でよく兄様と遊びました。」

 エドワードは、金色の目を輝かせると、腕組みをして、何度も頷いた。

「エディは、何度も川に落ちたっけね。」

 サミュエルは、眉間の力を抜くと、くすくすとからかうように笑声を上げた。

「ルシア様、川は、滑りやすいから気をつけてください。万一落ちても、兄様が助けてくれると思いますが。」

 エドワードはきまりが悪そうに眉を八の字にすると、ずいと身を乗り出してルシアの顔を覗き込んだ。

「ありがとう、エドワード。気をつけるわ。」

 ルシアは、真剣なエドワードに、くすりと笑みを零した。

「陛下、出発の準備が整いました。どうぞ、お乗りください。」

 三人が他愛のない会話に花を咲かせていると、侍従の一人が、恭しくルシアに声を掛けた。

「あら、そう。ありがとうございます。」

 ルシアは、女王の顔で答えると、静々と列車に足を踏み入れた。

 王家専用列車は、世界に数ある列車の中でも、一等洗練されているだろう。 

 深い夜のような紺の壁紙には、金色の星がちりばめられていた。建具のひとつひとつには、王家の紋章が刻まれており、ちょっとした別荘のような風情を感じさせる。

 サミュエルは、一際豪奢ごうしゃなコンパートメントの扉を開くと、恭しくルシアを招き入れた。

「いつか、普通の列車にも乗ってみたいわね。」

 ルシアは、席に着くと、無邪気な笑顔を浮かべた。

「大騒ぎになってしまいますよ。」

 サミュエルは、彼女の向かいに腰を下ろすと、穏やかに窘めた。

 ルシアが女王である以上、そんなささやかな願いは、叶わないだろう。国内はもとより、たとえ国外であったとしても、新聞に載る程度の騒ぎになりかねない。

 三人が席に着いてほどなく、列車は、かたんことんと、心地よいリズムを奏でながら、滑るように走り始めた。

「お父様が亡くなってからは、初めての旅行ね。」

 流れていく車窓の景色をぼんやりと眺めながら、ルシアは、ちいさな溜息を零した。

 服喪が明け、戴冠式を終えてからも、ルシアは公務のために王城に籠りきりだった。父王に似て、活動的な彼女にとっては、さぞ息が詰まっていたところだろう。

 にわかに静まり返ったコンパートメントに、電車の揺れる音だけが、寂しげに響いた。

「天国の先王陛下も、きっと見ていらっしゃいますよ。ルシア様が楽しんでいらっしゃれば、きっとお喜びになります。」

「そうね。久しぶりの旅行ですもの。楽しまなくちゃね。」

 サミュエルの一言で、ルシアの顔にふわりと光が差した。

 その笑顔はどこか儚げで、ともすれば、また消えてしまいそうである。

 ルシアが王宮を離れるのは、基本的には外遊や王室の行事が多い。休暇は、年に一、二度取れればいい方だ。

「ルシア様、兄様が焼いたショートブレッド食べますか?」

 拭いきれない空気の重さを察してか、エドワードは、荷物の中から包みを出すと、テーブルの上で開いてみせた。

 フィンガータイプのショートブレッドは、こっくりとしたバターの馨りを、コンパートメント中に漂わせる。

「あらやだ、美味しそうね。頂くわ。」

 ルシアは、ぽんと手を打つと、嬉しそうに目を輝かせた。

「では、私は紅茶を貰ってきましょう。」

 そういえば、ちょうどティータイムの頃合いだ。

 サミュエルは、裾を払うと、静かに席を立った。

 紅茶がなければ、ティータイムとは言えないだろう。

 夏の日差しの差し込む列車の中に、サミュエルの長い影が落ちた。




 サミュエルが紅茶を片手に戻ってくると、ルシアとエドワードは、子供の頃の川遊びの話で盛り上がっていた。

 こうしてみると、二人はまるで年の離れた兄妹のようで、何とも微笑ましい。

「サミュエル、おかえりなさい。今日の紅茶は、何かしら。」

「本日は、アールグレイだそうです。ミルクとお砂糖は、如何なさいますか?」

 サミュエルは、カップを三人分並べながら、ルシアに問い返した。

「そうね、お砂糖三つに、ミルクも貰おうかしら。」

「かしこまりました。エディは?」

「俺は砂糖二つで。ありがとう、兄様。」

 サミュエルは、静々と頷くと、ルシアのカップにミルクを注いだ。紅茶を加えると、湯気に交じって、柔らかなミルクと、ベルガモットの馨りが広がる。

 残りのカップにも、サミュエルは、手際よく紅茶を注いでいく。

 穏やかに揺れる列車の中、いつも以上にささやかなティータイムが始まった。

「あらやだ、バターの風味が効いて美味しいわ。サミュエル、また腕を上げたんじゃない?」

 ルシアは、ショートブレッドを一口齧ると、嬉しそうに頬を緩めた。

「お褒めに与り恐悦です。」

 サミュエルは、ちいさく微笑むと、胸に手を当てて頭を垂れた。

「本当に美味しいよ、兄様。」

 エドワードは、ショートブレッドを頬張りながら、きらきらと目を輝かせている。

 まるで、ちいさな子供のようだ。

「お前は、ほどほどにするんだよ。」

 サミュエルは、エドワードの口の端に付いたショートブレッドの欠片を拭ってやりながら、微苦笑を浮かべた。

 エドワードが食べることを見越して、かなり多めに焼いてきたつもりだ。しかし、この勢いのままでは、ヴェラに着くまでもたないだろう。

「はい、兄様。ルシア様のために、焼いてきたんですしね。」

 エドワードは、出しかけた手を渋々ひっこめると、悄然と眉尻を下げた。

「……また今度焼いてあげるから。」

 サミュエルは、しょんぼりしている弟の頭を撫でると、くすりと笑った。

 食い意地の張っているところは、ちいさな頃から変わらない。

「ねえ、着いたら、今日はのんびりできるのよね?」

 ルシアは、そっとカップを置くと、前のめりになりながら二人の顔を交互に見つめた。

「はい。本日のご予定は、特にありませんよ。」

「川へ行くなら、やっぱり今日かしら?」

 頷いたサミュエルに、ルシアは、ぱあっと顔を輝かせた。

 こうしていると、彼女も、まだ少女なのだということを思い出す。

「そうですね。明日以降は、晩餐会のご予定などもありますので。といっても、現地の天候次第、ですが。」

「晴れていると良いわね。」

 ルシアは、満面の笑みで、サミュエルの顔を見上げた。

「そうですね。」

 サミュエルは、穏やかな笑みを浮かべると、深く頷いてみせた。

 紅茶を一口啜ると、サミュエルは、窓の外に視線を移した。

 夏の日差し煽られて、窓の向こうは、煌めいて見える。青々とした緑には、鴉の羽根よりも暗い影が落ちていた。

 今は、ルシアの旅路が、平穏であることを祈ろう。

 光が強ければ強いほど、影はより一層、深くなるものだ。

前話:011_蜜月
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