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013_夏の日の記憶

 草いきれのする田舎道を、馬車の列が走っていく。

 ルシアは、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

 緩やかに流れていく景色は、懐かしい夏の思い出に彩られている。

 土手の下を流れる小川では、父と一緒に初めて水遊びをした。

 父と二人で護衛をまいて、街中を気ままに散策したこともある。城の中にいては見ることが出来ない人々の日常は、どんな絵本よりも眩しかった。

 思えば、父は、護衛の目を掻い潜って脱走する名人だった。城にいる時も、隙を見ては抜け出して、近所の子供たちと遊んだりしていたらしい。

 たしかあの時は、旅先でまで王が行方をくらましたと、大騒ぎになったのだったか。

 父が、ウォルターに叱られて苦笑いしていたのを、うっすらと覚えている。

「そろそろ到着しますよ、ルシア様。」

 エドワードの声に、ルシアは、反対側の窓を覗きこんだ。

 ヴェラの街はずれにある王家の離宮には、優美な尖塔がそびえている。幾度も夏のバカンスを過ごした、第二の我が家だ。

 古式ゆかしい城門を潜り、ルシアは、サミュエルに手を引かれながら、馬車を降りた。

 後続の馬車からは、荷を抱えた侍従たちが、続々と降りてくる。

 ルシアは、玄関の広間を抜けると、サミュエルとエドワードを伴って、王の居室に足を向けた。

 落ち着いた紺の壁紙に、赤いカーテンの引かれた部屋は、昼間だというのに薄暗い。

 ルシアは、窓辺に歩み寄ると、静かにカーテンを開いた。

 夏の日のまばゆさに、ルシアは思わず目を細める。

 青々と茂る木々は、陽の光を浴びて、宝石のように輝いていた。

 抜けるような青空には、大きな入道雲が、夏らしい風情を添えている。川遊びには、絶好の天気だ。

「すこし休憩したら、川へ行くわよ。」

 ルシアはくるりと振り返ると、満面の笑みを浮かべた。

「かしこまりました。では、お茶を持たせましょう。私は、侍従に伝えてまいります。エドワードは、部屋の外で警護を。お茶が済んだら、お召変えをしてお声掛けください。」

 サミュエルは、てきぱきと差配すると、深い一礼を残し、エドワードと共に部屋を後にした。

 急に、水を打ったような静けさが、部屋に横たわる。

 ひとりきりになったルシアは、ごろんとベッドに寝転がると、大きく伸びをした。

 こんなにのんびり出来るのは、いつぶりだろうか。

 父が亡くなってから、不慣れな政務に掛かりきりだった。城に籠ってばかりで、外に出たのは、戴冠式の日くらいだろう。

 慣れないなりに、精一杯やってきたつもりだった。

「やれることは、やっているはず……。」

 ルシアは、寝返りを打つと、深い溜息を零した。

 ひとりきりでいると、ルシアの胸に、様々な思いが浮かんでは消えていく。良いことも、悪いことも、この一年半でたくさんあった。

 ルシアがうっすらと目を開くと、ベッドサイドに置かれた、小さな写真立てが目に留まる。きっと、生前、父が置いたものだろう。

 色褪せた写真は、若き日の両親の肖像だった。母は、大きなお腹を、慈しむように抱いている。ちょうど臨月くらいだろうか。

 仲良く寄り添う両親は、優しい顔をしていた。

「お父様、お母様……。」

 ルシアは、写真立てに手を伸ばすと、ぎゅっと胸に抱きしめた。

 写真でしか知らない母の顔は、どことなく、自分に似ている。

 父の死後、王位を継いだのは、他でもない自分の意思だ。それでも、不安がない訳ではない。

 自分は、本当に、良い王になれているのだろうか。

 革新派の一件から、その考えが頭を離れない。

 ルシアの思考が深く沈み込み始めたとき、ノックの音が、それを遮った。

 どうやら、サミュエルが頼んでくれたお茶が届いたらしい。

 ルシアは、起き上がると、窓辺に設えられた小さなティーテーブルに着いた。

 紅茶の香気を胸いっぱいに吸い込めば、わずかながら、気分が和らぐ。

 革新派の一件といい、ちらりと見える叔父のモントール公カーティスの影は、不安の種だ。

 カーティスは、ルシアが即位して間もない頃は、頻繁に王城を訪れていた。父を亡くしたばかりの姪を気遣っているように見せていたが、内心は、何を考えていたのか分からない。

「でも、気にしてばかりはいられないわ。」

 ルシアは両頬を張って気分を切り替えると、おもむろに立ち上がった。

 せっかく川遊びをするのだから、くさくさした気分は似合わない。服装も、いつもより身軽なものがいいだろう。

 ルシアは、荷物の中から、たくさんの衣服を引っ張り出した。泳ぐわけではないにしろ、ドレスで行くのは論外だ。

 膝丈のチュニックの下に、ドロワーズを履いておけば十分だろう。子供の頃も、たしかこのような服装で川へ行った覚えがある。

 せっかく好天に恵まれたのだから、今は、心配事など忘れて、目いっぱい楽しもう。

 ルシアは、長い髪を結い上げて、つばの広い麦わら帽子をかぶると、弾む心のままに外に待つエドワードに呼びかけた。




 さらさらと流れる清流の音が、耳に心地良い。生い茂る木陰は、夏の熱気を和らげていた。涼やかな風が、優しく頬を撫でていく。

 サミュエルは、木陰に荷を下ろすと、川縁を眺めるルシアに目を向けた。

 長い髪をざっくりと結い上げた彼女は、水面に負けぬほどに、亜麻色の瞳を輝かせている。

「さ、二人も付き合いなさいな。」

 ルシアは、勢いよく振り返ると、ぽんと手を打った。

「はい。」

「勿論です。」

 二人は、短く返事をすると、ブーツを脱ぎ、ズボンの裾をたくし上げた。

 清流に足を浸せば、わだかまる熱が溶けていく。

「うーん、冷たくて気持ちいいわ!」

 ルシアは、水の中でくるりとチュニックの裾をひるがえすと、楽しげに微笑んだ。

 サンダル履きの彼女は、いつもよりもちいさく見える。麦わら帽子に縁どられたあどけない顔は、女王ではなく、年頃の少女のそれだ。

 サミュエルは、思わず口元をほころばせた。

 こんなにも溌溂はつらつとしているルシアは、いつぶりだろうか。

「サミュエル、隙あり!」

 ルシアの声に、サミュエルは、咄嗟とっさに顔を腕で庇った。

 ぱしゃりと水音が響き、腕が、ひんやりと湿っている。

「やっぱりサミュエルは、手ごわいわね。」

 ルシアは、濡れた手を振りながら、悪戯っぽい笑みを浮かべていた。

「俺、兄様に水掛けられたことないです。全部避けられちゃうから。」

 隣では、眉を八の字にしたエドワードが、すこし悔しそうに頬を掻いていた。

 何だか、子供の頃に戻ったようだ。

「お前には、負けてやれないからね。」

 サミュエルは、くすりと笑むと、勢いよくエドワードに水を浴びせかけた。




「サミュエル、ここ、お魚いっぱいいるわ。」

 木陰ですこし休んだあと、ルシアは、川面を覗き込んでいた。

「おや、本当ですね。」

 サミュエルが川面に視線を落とすと、岩陰で流れの弱いところに、小魚たちが、群れを成していた。

 ルシアは、興味深そうに、じっと小魚を見つめている。

 その横顔は、いつになく真剣だ。

「兄様! 助けてー。」

 不意に、岩場の上から、エドワードの情けない声が響く。

「どうしたんだい、エディ。」

「蟹に挟まれた……。取って、兄様。」

 サミュエルが駆けつけると、エドワードは、眉根を寄せて、困惑気味に手を持ち上げた。

 指先を、ちいさな沢蟹に挟まれている。

 きっと、自分で取るのは、潰してしまいそうで怖いのだろう。

「はいはい。」

 サミュエルは、沢蟹を優しくつまむと、はさみをそっとはずした。

 蟹は、大慌てで、川へと戻っていく。

「ありがとう、兄様。俺だと、蟹が危なかったから……。」

「ちいさい生き物が好きだね、お前は。」

 サミュエルは、しゃがみこんだままのエドワードの頭をぽんと撫でると、きびすを返した。

「ねえ、この岩、渡っていったら向こう岸へ行けそうね。」

 サミュエルがルシアの許に戻ると、どうやら彼女は、小魚の観察を終えて、沢歩きを始めるらしい。

 サミュエルは、慎重に岩から岩へと飛び移っていくルシアを、横から見守っていた。

「きゃ!」

 川の中程まできたところで、ルシアが、ずるりと足を滑らせた。

 このままでは、川に落ちてしまう――。

 サミュエルは、咄嗟に腕を伸ばして、ルシアの身体を抱きとめた。華奢きゃしゃな体は、心配になるくらいに軽い。

「ルシア様、大丈夫ですか? お怪我は?」

「ないわ。ありがとう、サミュエル。」

 ルシアは、突然のことに、驚いたように目を瞬かせている。

 彼女の亜麻色の瞳に、夕焼けの茜が滲んでいた。

「そろそろ離宮に戻るお時間ですね。楽しめましたか、ルシア様?」

 サミュエルは、ほっと息を吐くと、ルシアの瞳を覗き込んで、ちいさく問いかけた。

「ええ、とっても! エドワードの言っていたことは、本当ね!」

 ルシアは、サミュエルの腕の中で、大きく手足を伸ばした。

「ルシア様に、お怪我をさせる訳にはいきませんので。」

 胸が、じわりと熱を帯びる。

 サミュエルは、眩い莞爾かんじを浮かべるルシアに、精一杯の微笑みを返した。

「このまま、岸へ戻りましょう。」

 咳払いをひとつして、サミュエルは、ルシアを優しく抱え直した。

「サミュエル、ありがとう。格好良かったわよ。」

 ルシアは、サミュエルの首筋に腕を回すと、からかうように目を細めた。

 サミュエルは、思わず微苦笑を浮かべた。

 くるくると変わるルシアの表情は、夕焼けよりも目に沁みる。

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