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死の瞬間から逆算する発想について

 最近よく考えること。

 近い将来のことを、遠く未来の視点から逆算して考えると、今は心奪われ躍起になっているようなことも、実はそれほど重要でないと気づくことが、最近多い気がします。

 例えば、他人との衝突。確かに、その瞬間は腹が立つかもしれません。しかし、1週間後の自分を想像し、その出来事を眺めたとすればどうでしょう。果ては、病院のベットの上で今まさに死にゆく老境の自分が、過去を振り返ったとして、そのとき自分は何を思うのか想像してみてください。

 例えば、仕事の期限に追われる焦燥感、嫉妬や羨望の類、何物かを手に入れようとする欲望、社会的地位への渇望など…。少し極端な考えかもしれませんが、どんなふうに死にたいかという結末を想像したときに、今挙げたような大抵のことはそれほど自分にとって重要でないことに気がつきます。

 自分の死を意識すると、人生の目的が明確になり、普段さまざまの雑多な感情にもみくちゃにされて見えにくくなっている、自分の心の声が聞こえてきます。ここで自分が将来の死を想像したときの、素直な感想を言わせてもらうとすれば、次の2つに集約されることに気がつきました。

 1つは「後悔したくない」ということ。2つ目は「大切な人のために時間を使いたい」ということです。

 後悔したくないというのは、死ぬ時に「もっとやりたいことをやっておけばよかったな」とか「もっと誰かを大切にしておけばよかったな」などと思い残したくないということです。

 私たちは、ある時代にたまたま生まれています。その中には、さまざまな規範があります。守るべき道徳や慣習、習俗があります。しかし、自分の素直な心のありかたが、それらと衝突したときは、私は自分の心を優先したいと思っています。時代に従順にしたがうのも結構ですが、私はそれよりも時代に左右されない普遍性に従い自由に生きることを望みます。規範は時代と共に変わります。しかし、人の心には普遍性があります。過去に繰り返された人間の悲劇の多くは、たまたまその時代に生まれた規範によってすり潰された人間の歴史であると考えます。

 シンプルに言えば、その時代の大多数の人間の価値観と、自分の素直な心の声が共鳴しなければ、大多数の価値観にそっと背を向け、自分の感じ方、時代を超えた普遍性を追求していきたいということです。

 2つ目の、大切な人のために時間を使いたいということについて。人生は有限です。お金、モノ、地位、名誉…実に雑多な要素が、人生における判断に深刻な影響を及ぼすものですが、おそらく人は、いよいよ今際の際(いまわのきわ)に追い込まれると、誰かをもっと大切にすればよかったというところに回帰すると思います。これは純粋に私の直感です。

 その対象は誰でもいいのです。親、兄弟、配偶者、子、恋人、同僚、友達、知り合い。その中で、自分がこれはと決めた人に、優しくしたり、手をかけたり、心を砕けば良いのだと思います。それで何か見返りがあるかは分かりません。究極、誰しも死んでしまえば、人の好意なんてものまで墓場まで持っていけないのですから、見返りなんざどうでも良いのです。それでも人間は、最終的にはそういったところにこそ、生きていてよかったという価値を見出すような気がしてなりません。

 もちろん、世の中には馬が合わない人もたくさんいるし、私は博愛主義が好きではありません。聖人君子ではありませんから、誰でもみんな平等に扱うことなんてできないでしょう。

 それでも優しくしたり、手をかけたり、心をくだいたりする相手が1人である必要はないと思います。むしろ、自分の親兄弟親戚だけが大切で、あとは生きようが死のうがどうでもいいというより、人生の間に1人でも多く、愛情を注いだり、想いを伝えたいと思える人に出会えたほうが、私にとっては幸せです。

 そして、そのようにして出会った人と、たくさん時間を共有したいと思います。そうすれば、きっと後悔も少なく気持ちよく死んでいける気がします。


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