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石原慎太郎さんの死に際して

 職場で「石原慎太郎氏死去」と速報が流れました。「石原慎太郎死んだんだって。」「そうですか、死んだんですねぇ。」そんな会話が交わされ、そしてまた、窓からさんさんと陽光がさすなかで、いつもと変わらない時間が流れていきました。

 石原慎太郎さんは、東京都知事時代のイメージが強く、作家さんだった時代のことはあまり知りません。尖閣諸島の国有化の際など、随分世間を騒がせた人ですが、冒頭に述べたとおり、彼の死去に対する私の職場での反応は実にさみしいものでした。

 志村けんさんの時は、もう少し反応があったように思います。そうはいっても、志村さんさえも、数日もすれば忘れ去られたように、また日常が続いていきました。いくら有名人になったとしても、そこは変わらないようです。いったい死とは何なのでしょうか。

 おそらく、身近な人にとってこそ、死は格別なのだと思います。それこそ、何年もの間、故人の死を悼む人はいるでしょうし、死ぬまで思慕する人もいるかもしれません。しかし、そんな想い人もいつかは亡くなり、いつしか、そんな人が存在したことすら記憶する人は誰もいなくなるでしょう。

 99.999%の人間は、2、3代も世代を経れば、忘れ去られていくでしょう。残りの0.001%は、記録として何かに記述される存在としてのみ残り続けます。織田信長なんかは、その典型例でしょう。それすらも、千年経てばどうなっているでしょうか。そもそも日本という国は続いているのでしょうか。

 例えば、ある男の少年時代、学校の帰り道にかいだ花の匂いのような儚い記憶。そんな吹けば消し飛ぶような、人類すべてのたわいのない記憶。人の数だけ、そんな小さな物語の記憶が無数に生まれ、そして毎日、誰にも語られることのない膨大な量の物語の記憶が死とともに失われていきます。そう考えれば、人間の一生とは、壮大な無駄のかたまりのようです。

 例えばとても有名なユーチューバーがいたとします。そんな人の人生も例外ではありません。今とても輝いて、まぶしいような気がしてしまうかもしれません。しかし、今朝のニュースで流れた石原慎太郎氏の訃報と何が違うのでしょうか。

 結局のところ、誰もがいつかは忘れられます。そして、自分の死は、多くの人間にとって大したことではありません。身近な数名が、自分の死を少し気にかけてくれるかもしれません。そして自分が死ぬ頃には、自分が大切に思っていた人も、死んでいるかもしれません。誰かに看取ってもらえるとは限りません。未来のことはわかりません。

 それでも、人生ははかないからこそ、いとおしいものだとも思います。たまたま同じ時代に生まれ、同じ時代を生きることになった身近な人の記憶に残るように生きられれば、それで十分じゃないかとも思います。いつかは忘れ去られるとしても、その時だけでも、覚えていて欲しいと思ってしまうのです。理屈ではないのですが、私はそんなふうに考えます。

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