【公演レビュー】秀山祭九月大歌舞伎②

歌舞伎座新開場十周年
二世中村吉右衛門三回忌追善
秀山祭九月大歌舞伎

全体の要約と昼の部についてはこちら

夜の部:2023年(令和5年)9月24日(日)

一.菅原伝授手習鑑 より 車引
二.連獅子
三.一本刀土俵入

歌舞伎の三大名作の一つに数えられる「菅原伝授手習鑑」(1746)全体のあらすじは下記リンク参照。「車引」は4番目のチャプターの場面。

見栄の切り方や隈取りの差異で登場人物の心理、キャラクターを可視化する歌舞伎の美意識の粋がつまった一幕。
今回、主君の因果で敵味方に分かれた三兄弟、松王丸・梅王丸・桜丸を中村又五郎、歌昇、種之助の親兄弟がつとめた。歌昇の芝居の線が太くなり、伯父の歌六が演じる時平を挟んだ四者の「綱引き」の充実度アップに貢献した。
上記リンクを読むと分かるように筋はハッキリ言ってメチャクチャだし、「車引」の後の幕では理不尽かつ不可解に命を絶つ、絶たれる人間がゴロゴロ出る。それでもひとの心を打つのが歌舞伎のマジック。
また二代目吉右衛門は「美名の下で犠牲になる命」に対して特別な感覚を持っていたと推測する。本作、「盛綱陣屋」などの御家芸、自ら能を基に創案した「藤戸」・・・いずれもそういう要素を含むものだった。

「連獅子」の頭の羽根をクルクル回す場面は、大名跡や代をまたいだ襲名の折に演じられると必ずニュースなどで取り上げられるので御存知の方も多いだろう。

ただ、本舞踊の核心「獅子の子落とし」にまつわる見せ場は、「クルクル」に先立つ前半にある。繊細な色彩変化を伴う動きが連続するので、演者には高い集中力が求められる。
本公演では二代目吉右衛門の娘婿の尾上菊之助、その息子の丑之助が舞い演じた。菊之助は拡がる華やぎと峻厳さのコントラストが鮮やかで周囲の空気までカラーのベールになる。他方、丑之助はまとまっているが、何か今風に言えば刺さるものが乏しい。このままちんまり成長(?)しないか少々心配になる。

「一本刀土俵入」(1931年)は社会の底辺でさすらう男女の交錯を哀感をもって映し出す作品。約90年前に『沓掛時次郎』などで知られる劇作家の長谷川伸によって創られた、いわゆる「新歌舞伎」。

簡単に言えば切ない人情劇だが、ちょっとセリフが説明調だったり(新劇風)、かと思えば主人公の立場の飛躍に何の描写もなかったり(歌舞伎っぽい)と若干中途半端な印象。
歌舞伎より新派あたりで舞台にかける方が合う題材だと感じた。実際、いまはなき新國劇の看板演目の1つだった。

十代目幸四郎は取的として登場し、後半は博徒の茂兵衛の変異をサラッと演じ、劇のリズムの弱さをある程度埋めていた。
序盤で取的の茂兵衛に情をかけ、その後やはり流浪の末ピンチに陥るラストで思いがけなく茂兵衛から恩を返されるお蔦を演じる雀右衛門も、ややくどい密度のセリフを薄味の芝居に絡めてうまく着地させる。

お蔦の夫の辰三郎に尾上松緑、その辰三郎を捜して家探しする儀十は錦之助、儀十の配下の1人に染五郎と端役まで「秀山祭」ならではの顔ぶれだが、作品の構成のせいで役不足は否めず。
かつて「〈新歌舞伎〉は戯曲としてはよくできているが、どうも面白くない」と指摘した二代目市川猿翁や梅原猛のいわんとするところがちょっと腑に落ちた気がする。

歌舞伎の「興行力」を実感

と、芝居自体は中の上より少し良いくらいだったが、歌舞伎の良さは劇場内でお弁当が食べられる、縁起物のたい焼きを買える、展示を見る、種類豊富なお土産と公演の成否以外で観衆を楽しませる要素がふんだんにあること。
考えてみれば正月まで含めて毎月、ほぼ毎日興行するのだから当然多少「落ちる」月や部が生じるのは致し方ないところ。でもそれなりに楽しませる工夫が仕掛けてある。

逆に日本のクラシックのコンサートやオペラの公演は、そうした副次的な楽しみが全くないため、演奏内容だけの勝負になり、聴衆の印象もそれのみで決まる。これはなかなか厳しい話で、聴衆の拡がりや業界の発展が進まない理由の1つだと思う。

プロ野球で観客動員数の多い球団の1つ、ホークスの元フロント幹部は、あるコラムで「野球は優勝チームでも10試合に4試合は負けるスポーツ。つまり勝敗だけでファンを満足させるのは難しい。
従って球場設備、アトラクション、食事、グッズなど試合内容以外でのファンサービスを講じる必要がある。王道としては毎日試合に出る野手のスターを育てること」
と書いていた。

歌舞伎はある程度これができている。
だから公演内容に凹凸があってもそれなりに観衆を満たせるのだ。

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