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【公演レビュー】2022年7月29日/井上道義指揮、読売日本交響楽団

到達点のハーモニー

《プログラム》
ハイドン:交響曲第45番「告別」
~休憩~
ブルックナー:交響曲第9番(ノヴァーク版)

演奏前のプレトークについてはこちら。

この顔合わせのブルックナーでは2019年「フェスタサマーミューザ」における第8番が破格の内容だったから今回も期待が膨らんだ。

ブルックナーの第1楽章。開始は明徴な刻みに影の差す、文字通りミステリオーソ。ゆったりしたテンポのもと、奥行きを抱く管楽器が丹念にブレンドされる。そこからの発進、沈潜、そして最初の頂点への登攀まで各パートの役割分担がきっちりなされ、吹かし込んでもがなり立てず、美麗さの光るハーモニーが展開。ティンパニの機敏かつ厳粛な興隆が全体を締める。
続く楽想は清澄なヴァイオリンと木質のロマンの濃いチェロのコントラストが明確で音楽の重層性、ロマンから出でてそこを超えていく指向を鮮やかに伝える。フルートやオーボエの儚い明滅が響きを隈取った。
再びの頂点に向かうところは前半同様行き届いたコントロールのもとで縦横に拡がるサウンドがホールを満たす。緊張が貫く一方、不要に根を詰めた音楽ではなく、歌の伸びや切り返しの柔軟性を保つ進行。第1楽章の終盤もウォンウォンせず、しなやかな美感のなか強靭に結んだ。

第2楽章は速めのテンポ、ややマッチョ系のサウンドでゴリゴリ押す。時折リズムの崩れがあったのは惜しいが、スケルツォのグロテスクな圧力釜の側面を強調し、トリオは先の研いだ音で奏でるところは「その先」の時代に生まれる音楽を示唆する感じで面白く聴けた。

第3楽章の表現は第1楽章とほぼ同じことが言える。弦の立ち上がりの潤い、芳醇で頼もしく鳴る管のブレンドの妙が、晴朗さの中に翳の忍び寄る楽想を明確に可視化する。第1楽章とは違う顔色でグーっと響くチェロが際立ち、またホルン、オーボエのひとくさりすら表情の浮き沈みがつく。ラストの修羅場でも多少の綻びを恐れず、単なる叫喚をこえて各パートの音色美、ハーモニーの微妙な変化を追求していた。コーダは次なる音楽の探索者でありながら、幕引きで第7番の第2楽章が蘇り、ロマンへ回帰して収束する。難しい音楽の推移を指揮者とオーケストラが繊細にフォロー、玄妙に着地させた。余韻の後、久々に聞く大喝采がホールを満たし、長く続いた。
約2年後の引退をひかえ「(読響と)満を持して第9番をやる。ただし何事も終わりがある。指揮者とは幕を開け、幕を閉じる役目を演じる役だ」とプログラムに記した井上道義。締め括りにふさわしい充実の時間だった。

順序が逆になったが前半のハイドンは中編成でモダン楽器の鳴りの魅力を生かしつつ、機敏なギアチェンジ。終楽章の「仕掛け」はオルガン前にスクリーンを置き、そこに楽団員のオフショット(かつてシーズンプログラムの末尾に載っていたのと同様の笑える写真たち)が映り、当該団員が一礼して下がっていくユーモラスなもの。もちろん指揮者の写真も「登場」し、最後は楽団員と「退場」。曲が終わると指揮者や演奏→退場した楽団員が横に並んで一礼。
ちなみにプレトークで指揮者は「この曲は《告別》というより《夏休み希望》交響曲。実際オーケストラはこれが終わると夏休み。だから本当は(ブルックナーと)逆の方が面白い。まあ、それだと座りが悪いから、前座なんだけど」と語っていた。

前述の第8番の名演から3年。感染症禍で楽壇を取り巻く状況は一変したが、この日は休憩時のロビーの様子も含めて以前の風景を思い出す盛況。やはり一流の指揮者が一流のオーケストラと上質の音楽をやり、適正な価格で提供することが大切だと改めて感じた。

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