ジョージ・セル【指揮台のタイラントと呼ばれて】1970年5月22日

本稿の狙い(というほどのものでないが)はこちら。

「夢の祝祭年」

1970年は日本のクラシック音楽受容史の「夢の祝祭年」。
ベートーヴェン生誕200年と大阪万博が重なり、古典から当時の前衛音楽まで百花繚乱状態になった。
前者ではサヴァリッシュ指揮(カイルベルトの予定だったが1968年に急逝):NHK交響楽団のベートーヴェン交響曲チクルス、ヴィルヘルム・ケンプの同ピアノ協奏曲全曲演奏会(森正指揮:NHK交響楽団)、シュミット=イッセルシュテット指揮:読売日本交響楽団の同交響曲第9番/ミサ・ソレムニスなどが代表格。
後者においては武満徹、湯浅譲二、クセナキス、シュトックハウゼンといった当時の現代音楽の大物作曲家がパビリオン用の音楽を手がけた。
万博共通テーマ「人類の進歩と調和」のもとで多種多彩な「未来」が示されるなか、空間にあふれる音楽は「これもまた《未来》なのか・・・」と来場者に想起させた。

さらに万博記念事業としてカラヤン指揮:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団をはじめ、海外の名門オーケストラの招聘が行われた。
その一環で音楽監督ジョージ・セル率いるクリーヴランド管弦楽団は1970年5月、客演指揮者ピエール・ブーレーズ、准指揮者ルイス・レーンも伴い初来日した。
5月15日の大阪(旧フェスティバルホール)から同25日の東京文化会館まで12日間で全11公演のハードスケジュールのうち、セルは8公演を指揮している。
当時の日本は高度成長真っただ中。ある程度の豊かさを手にしたひとびとの間で「他者よりちょっと優越感を味わえる手の届く教養手段」としてクラシック音楽のレコードは家庭空間を飾る要素となり始めていた。なかでも「ドイツ・グラモフォン」の黄色いタイトルロゴが鎮座するカラヤン:ベルリンフィルのレコードは見栄えのする上品なジャケットと相まって人気を集めた。
一方、セル:クリーヴランド管弦楽団はあくまでも事の分かったひとから支持される存在だった。
この両者がちょうど同じ年の同時期に揃って来日したのだからまさに「夢の祝祭年」だ。

最初で最後の来日公演

幸いツアー終盤の5月22日の東京文化会館公演がアンコールを含めてステレオライヴ録音で残っている。テレビ放送もされたが残念ながら映像は現存しないという。

セルのもとでクリーヴランド管弦楽団は磨き抜いたアンサンブルで鉄壁のバランス、至高の透明度、そして深い陰影の覗く音楽を繰り広げる。
ウェーバーとモーツァルトでは引き締まった様式美の中に大胆な瞬間的テンポの緩急を入れ、ゾクッとさせる。シベリウスは清澄な質感で運びながら、要所になるとブワンと血のたぎりを表して聴き手の胸を焦がす。
アンコールのベルリオーズ「ラコッツィ行進曲」は心技体の総力戦で圧倒する。精緻さとあふれる情熱を高次元で結びつけたオーケストラ演奏の理想郷。

冒頭のウェーバーは淡々とスタートするが、空間を切り裂くトゥッティの後の主部に入ると響きの密度は一気に増し、今風の言葉を使えば「ギアが上がる」。
澄んだ質感に明滅する煌き、リズムのキレ、ディテールの解像度、クールさの向こう側からたちのぼるエネルギー・・・締め括りのテンションは圧巻。
モーツァルトは当時の日本の聴衆を驚かせた破格の内容。当時高校生で本公演に接した音楽評論家の渡辺和彦は記憶に刻まれた箇所を綴っている。

出だし3小節目のヴィオラのさざ波
第1楽章展開部冒頭でフッと身体が浮き上がるかのようなフェイント
メヌエットのトリオ部分の後半、ホルン重奏部分(これが1番と感じた)

渡辺和彦『クラシック極上ノート』(河出書房新社)

また同じプログラムで行われた5月15日の大阪公演を聴いた音楽評論家の西村弘治(1937年生まれ)はこう記した。

私はどんな美しさがセル指揮のクリーヴランド管弦楽団によって披瀝されるかと、日本にやってきた初日のコンサート(1970年5月15日)を聴くために大阪のフェスティバルホールに行った。
ト短調交響曲のため第1ヴァイオリンが10人並んでいて、モーツァルトにしては弦の大きい編成が目にとまった。それから長身のセルがぎこちない足取りで指揮台に立ち、左手に力をこめてオーケストラの注意を集中させ、かつ抑えたようにしながら、指揮棒を振り降ろした。
はじかれたバネのようにヴィオラが二つに別れて伴奏をはじめると、やや遅いテンポに乗ってテーマが歌われ出した。透明で厚みのあるソノリティが柔らかく温かく肌にしみてきて、私は痺れそうな感じにもなった。
オーケストラは水も漏らさない緊迫したアンサンブルを維持しながら、堅くなるどころか、絶妙に呼吸していた。
セルはこの半音階的口調のテーマの語尾ともいえる6度の跳躍に時々ふっと息を抜く優しいニュアンスを与え、硬直から救うのだった。

西村弘治「セル/クリーヴランドの感銘」(1970年)

淀みない進行のなか、わずかな時間にサッとテンポや強弱の動きをあたえて、浮遊する陰影を醸し出すのはセルの技であり、モーツァルトのト短調交響曲はそれがもっともハマった作品の1つ。
なお、西村弘治はコンサートの翌日にセルから以下のコメントを得ている。

西村「クリーヴランド管弦楽団はモーツァルトに適わしい楽器ですね」
セル「ええ、たいへん美しいものです。私はそういう楽器を作りました」
西村「その美しい音はどうしたら生み出せるのですか?」
セル「オーケストラは、いわば、日本の大庭園のようなものでしょう。毎日の丹精をこめた世話が必要なのです。オーケストラにとって最も大切なものはチームワークです。個性が協調性をもって、調和のとれたチームワークとして発揮されなければなりません。そこでオーケストラが自由と共に同質性、均質性を得るのです」

前掲文

音楽家としては雄弁だったセルはときに辛辣な発言で知られたが、上記のコメントではクリーヴランド管弦楽団への自負の間に日本の例えを交えるなど「サービス精神」も垣間見える。
なお、後半のシベリウスの交響曲第2番について西村弘治は「セルは、モーツァルトの後、シベリウスにクリーヴランドの名人芸を力いっぱい振りまき、音楽そのものの荒っぽさと情熱的表現によって、モーツァルトの緊張感と峻厳さから解放し、聴衆を狂喜させて大喝采を博したのだった」(前掲文)とまとめている。先立つパラグラフで「何かを問うといった音楽ではない」と書いているから著者の中でシベリウスはモーツァルトより一段低い音楽とみなしおり、それゆえに演奏からセルの音楽的「サービス精神」をくみ取ったのかもしれない。

1970年5月のジョージ・セル指揮:クリーヴランド管弦楽団の来日は日本の音楽関係者、聴衆に強い印象を刻み付けた。しかし、同年の春先(4月頃とされる)にセルは骨髄癌の余命宣告を受けており、体調に波があるなかでの極東への旅だった。
ツアー最終公演の5月28日、アンカレッジの公演を終えてクリーヴランドに戻ったセルは病臥に伏し、6月7日の73歳の誕生日を迎えた後、7月30日に逝去している。
当日クリーヴランド管弦楽団はセルが尽力して1968年に創設されたクリーヴランド郊外におけるブロッサム音楽祭でブーレーズ指揮の公演があり、演奏会前の食事の席でメンバーに訃報が伝えられたという。
来日公演で注目が高まって約2ヶ月後のセルの死は日本のクラシック音楽ファンに衝撃を与えた。
再来日できていればセルとクリーヴランド管弦楽団の認知度は更に大きく上昇したと推測する。
とはいえ、1度でも日本に来られたことは大きい。英米のオーケストラへの評価が高いとはいいがたい日本でクリーヴランド管弦楽団は名門とみなされ、そのアンサンブルの緻密さをいまなお称讃される。
逆にレコードで親しまれた(ニュー・)フィルハーモニア管弦楽団はサー・ジョン・バルビローリとやはり万博記念事業で来るはずが、直前にバルビローリが急逝。代役のプリチャードとやってきたが不評でバルビローリ共々日本の聴衆に力量を知らしめる機会を逸した。
来日が叶い、しかも1公演でも演奏会全体の記録が良好な音質で現在に遺されたジョージ・セルとクリーヴランド管弦楽団は幸運であった。

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