中曾根康弘元首相が見たゴルバチョフ【書記長就任直後の姿】

国外での声望とロシア国内の批判

2022年8月30日に91歳で亡くなったミハイル・ゴルバチョフは非常に評価の難しい政治家の代表格。
国や地域を越えた高い知名度があり、ノーベル平和賞まで受賞した世界史に残る人物であったことは間違いないが、何を成したかと問われると途端に考えてしまう。
簡単に「ゴルバチョフとその時代」を記せば、米ソ間の緊張緩和が実現、その後の東欧民主化や冷戦終結の道を拓いたが、自らが率いたソ連は内政改革に行き詰まってあっけなく崩壊する。
ゴルバチョフの政治生命はここで事実上絶たれ、新生ロシアは代わったエリツィンのもとしばらく混乱した、となる。
従って「ゴルバチョフが残したもの」はとらえにくい。
「強い指導者」プーチン大統領が支配する現在のロシアにおいてはゴルバチョフを国際的に評価されたロシア人(ウクライナとの縁も深い)と悼む意見がある一方、大国ソ連を崩壊させた「裏切者」とみなす向きも目立つようだ。
「政治家ゴルバチョフ」の歴史的評価はひとまず擱き、本稿では同時代を彩ったリーダーのひとり、中曾根康弘(1918-2019)の眼から見たゴルバチョフの断面を紹介する。

「弔問外交」の成果を狙った中曾根

中曾根は首相在任中の1985年3月、書記長就任直後のゴルバチョフと前任者チェルネンコの葬儀の際のいわゆる「弔問外交」で初めて面会した。
著書『自省録』(新潮社、2004年;のち新潮文庫)に経緯を記している。

ゴルバチョフとの思い出にも触れないわけには行きません。彼が共産党書記長に就任したとき、私は総理大臣。思い出すのは、1985年3月のチェルネンコ書記長の葬儀に参列して、後継者に決まったゴルバチョフと会談した時のことです。
チェルネンコが逝去したことを知り、私はモスクワに行くことをすぐに決めました。政権の交代期というのは外交政策転換の絶好のチャンスだからです。韓国の全斗煥政権が誕生した時もそうでしたが、政権の交代期は外交政策再調整のまたとない機会です。
こんな好機を逃す手はないと思い、「ゴルバチョフに会いに行く」と言うと、外務省は反対して、「外務大臣をやればいいではありませんか」というのです。
チェルネンコの前のアンドロポフ書記長が亡くなった時に、当時首相だった鈴木善幸さんがモスクワに行ったのですが、後継者のチェルネンコに会えなかった。
外務省はこの時のことを覚えていて、中曾根もそういう扱いを受けることになったりすれば国威失墜になるから、外務大臣に行ってもらう方がいいと判断したわけです。
しかし、私は弔問外交の機会をみすみす逃すことなど思いもよりません。「必ず、ゴルバチョフに会って見せる」と外務省を押し切りました。

中曾根康弘『自省録』pp.139-pp.140

「国威」というより「省威」失墜を恐れたとしか思えない外務省のへっぴり腰を一蹴してソ連に赴いた中曾根は無事(?)ゴルバチョフと対面する。

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