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「ご所有の≪西洋館≫の鑑定承ります」

ミステリはわたしの蔵書を構成する一部になっていますが、おそらく一番はじめに購入した「推理小説」は、この本です。

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篠田真由美『未明の家 − 建築探偵桜井京介の事件簿』(講談社,1994)

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見て見て、講談社ノベルズ。
三省堂の書皮は、購入当時のものです。神保町の三省堂で買ったんだと思います。

中学1〜2年のころ、わたしの周辺でこの手の「新しい推理小説」が流行っていました。
その中で、自分で集めるに至ったのは、結局この「建築探偵桜井京介の事件簿」シリーズだけでしたが。

探偵役の桜井京介は、W大文学部大学院生で西洋建築が専門。
ワトソン役の蒼(アオ)は、特異な視覚記憶力をもった少年。
もう1人のワトソン役の深春は、京介の悪友でバックパッカーのW大生。
この3人が、西洋建築にまつわる家族の謎や、それを追ううちに起こる事件を解決していく作品です。

この『未明の家』はシリーズの1作目なので、登場人物の掘り下げ方としては「キャラクター紹介」にとどまります。
風変わりで地味な(というか、関心があることにしか心を開かない)京介と、にこにこ人当たりがよくて元気な蒼、頼りがいがあり気風のいい深春、という凸凹な3人のチームワークや掛け合いを見るのが楽しい、という点で、キャラ読みに適しています。
そして、シリーズが進むごとに明かされていく、それぞれの過去やその先の物語も、すごくいいんですよね……
同シリーズでは、蒼の過去に触れる『原罪の庭』や、深春が主人公の『灰色の砦』がとくに好きです。

さて、『未明の家』で舞台になるのは、伊豆にある「スペイン風建築」の洋館。
その所有者である偏屈老人の死後、館の存続を巡って一族の間で起こる諍いや、家族の確執、そもそも老人はどうしてその館を建てたのか、という過去にまで手を伸ばします。
わたしは建築知識についてはからっきしですが、それでもこのシリーズを通して、「建物っておもしろいんだなあ」というありきたりの感情を持つようになりました。おかげで今でも、旅行中に建築物を眺めるのはけっこう好きです。

わたしはこの作品で、「スパニッシュ建築」というものを知りました。
家の中央にある「パティオ」なるものが、どういう役割を持っているのか。
スペインという土地の気候に対して、どのような機能をはたしているのか。
そういったことを、何度も何度も読みました。

まさかそれから10年以上たって、スペインで「スパニッシュ建築」を見るとは思ってもみませんでした。これだから、読書で得た知識はどこでどう役立つか、わかったものではありません。
物語の楽しみかたはさまざまで、わたしは基本キャラ読みで作品を楽しんでいますが、『未明の家』と、ヴェネツィアが舞台の『仮面の島』については、“本で読んだアレを見る”という衝撃のほうが,記憶として強くなっています。

スペインの建物には、修道院のような大きな建物にも、住宅のような小さな建物にも、「パティオ」があるのでした。
建物の真ん中にあって、緑を茂らせ、四角く切り取られた空を見上げることができる場所。
周囲の部屋や回廊から、簡単に出られる中庭。
日本家屋は、塀の中央に建物があって、建物の周りを庭が囲みますが、スペインでは外壁が塀の役割をしていて、庭は建物の中央にあるのです。
それは、夏の過酷な日差しを避けて、空や自然を楽しむための、その土地ならではの形でした。

知識と現実が噛み合った時の興奮は、忘れられません。

そういった体験の中でも一番衝撃的だったのは、プラド美術館の特別展で,ゴヤの「アルバ公爵の肖像」を見たときです。
小説のなかでこの絵の説明が出てくるのですが、何度も読んでいたせいで、絵のタイトルや解説のプレートを見るまでもなく、遠目から見ただけでそれだとわかったのです。

「見てごらん、これが有名な『アルバ公爵の肖像』だよ」
 京介が開いていたのは巻頭にあった女性像で、黒服のカルメンみたいなかっこうをした女の立ち姿が描かれている。色の悪いグラビアとはいえ、真っ赤なサッシュと金の腕飾りが印象的な絵だ。
「この人はスペイン一の大金持ちで名家で、しかも現在まで続いているアルバ公爵家の女当主でね、宮廷画家だったフランシスコ・ゴヤ五十一歳の恋人だった。髪の毛のひとすじが欲情をそそると当時歌われた女性さ」
「そんな美人にも見えないけどな」
 それは蒼の正直な感想だ。やけに面長で、眉は目尻に届くほど長くて、第一ずいぶんなおばさんじゃないか。
「歳はいくつなの?」
「三十四歳か五歳、だったかな。まあ、美人の基準ほど世に連れて変わるものもないらしいからね」
 京介は軽く笑って、
「ただこの絵には色々おもしろい話があるのさ。残念ながら図版の方は印刷が悪くて見えないかもしれないけど、アルバ女公は右手の人差し指で地面を指しているだろう。そこにゴヤの名前がある。それも画家のサインじゃなくて、彼女が自らの指で書いてみせたみたいに、逆さに、遠近法的に描かれているんだ。ほら」……
「それ、もしかしたら実際にあったことだったのかなあ」……
「そうだな。ゴヤは当時すでに病気で聴覚を失っていたんだ。女公爵との恋といったって、言葉を自由にかわすことはできない。表情、身振り、筆談 ー そんなもどかしさに耐えられなくなった女性が、心昂るままに書きつけた愛の言葉を、男に向かってこれを見よとばかりに指し示す。そんな情景がほんとうにあったのかもしれない」(pp. 227−229)

実際に美術館の壁にかけられたその絵を見たとき、小説で読んでいた力強い印象が脳内にフラッシュバックして、絵と重なりました。
これこそ”あの”アルバ公爵に違いない。
近づいて、堂々たる女性のその指の示す先を見ると、そこには確かに、ゴヤの名前が記されていたのです。

プラド美術館では、他にもたくさんの名作を見たのに、見ようと目指していった絵もたくさんあるのに、この偶然の出会いがハイライトになってしまったほど衝撃的な出来事でした。

同じ本を繰り返し読むことの良さは、その時々の感想が違うことももちろん、本から受ける知識や印象を、自分の一部として蓄えることができる、という点にもあります。

今回、本棚本の紹介として久しぶりに引っ張り出してきたわけですが、上のアルバ公爵の引用箇所を探そうとパラパラめくっていたら、スペインの歴史や土地についても細かに説明されているところがありました。
ヨーロッパ史に少しは詳しくなった今なら、初めて読んだあのころとは違って、もっと作品を楽しめるんじゃないかな。
いま読んでいる本が読み終わったら、改めてシリーズを読みたいですね。


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