代打の神様
いつものように暑い夏だったと記憶している。
僕は手渡された10番の背番号をじっと見つめていた。レフトの番号は7番。10は9人で行う野球というスポーツにおいて、補欠第一号を表す番号だった。誰も僕に声をかけなかった。その時の僕の顔は悔しさと焦りでグシャグシャだったに違いない。
昨晩、単身赴任中の父親から電話が来た。父親からの電話を母親から受け取るのは初めてだった。父親は明日の試合頑張れよ、と言っていた。母親からの言伝ではなく、直接声をかけたかったのだろう。父親から励まされたのも、初めてだった。
前日の練習でレフトを守っていたのは僕だけだった。あの広い左翼は僕一人で守っていたのだ。僕は明日が楽しみで仕方がなかった。小学五年生から始めた野球、下手くそだったけど自分なりに努力をしてきた。ようやく僕は先発で試合に出られるんだ。
朝は飛び起きて集合時間までバットを振った。中学校の野球部に入ってヒットはたったの1本。小学校の2年間を含めれば3年半で1本。それではレギュラーとしての威厳は保てないと思っていた。相変わらず非力なスイングだけど、頑張ればきっと打てる。そう信じていた。
夏の新人戦。上級生が引退して僕たちが年長者になって初めての大会。地域に3つの中学校しかないので、2勝すれば県大会に進める。みんな気合いが入っていた。
集合時間になり、先生が現れた。なんとかかんとか、気合を入れる言葉を告げた後に背番号を配り始める。1番はエース、2番はキャッチャー。3、4、5、6は内野手。そして7番。
呼ばれたのはとっくんだった。とっくんが前の日どこを守っていたのかすらよく覚えていない。僕の名前が呼ばれなかった瞬間に僕の頭は真っ白だったからだ。
頑張れよ、と父親の声が頭の中に鳴り響いた。僕は万引きをした子供のように、親を裏切ってしまったと思っていた。
新人戦は僕たちの圧勝だった。特に初戦ではエースのいっちゃんがノーヒットノーラン。5回にレフトへのライナーをとっくんがダイビングキャッチ。僕には捕れない打球だった。新人戦の勝利の中で僕だけが負けていた。僕は舞い上がっていた。ただの下手くそなんだ。
家に帰ると単身赴任から一時帰宅した父親と母親が何やら怒っていた。父親は僕の試合を見るために帰ってきていたのだ。何やら父兄たちが話していたのが聞こえたらしい。「レフトが下手くそだったから先生に相談してメンバーを変更した」と言っていたらしい。僕は悔しくてそのまま2階に上がって泣いた。
僕の中学校の野球部は3つの少年野球チームが集まっている。僕はビッグドリームズに入っていた。その他に玉岡と小塙というチームがあり、玉岡のチーム方針に異を唱えた父兄たちがビッグドリームズを作ったため、玉岡とビッグは特に仲が悪かった。僕たちはビッグの一期生なので3チームが合同になるのは初めてのことだった。玉岡は小学校のグラウンドを占有できるいわば「老舗」のチームであり、中学校のパイプも強い。僕たちの入学と同じく赴任してきた若い顧問は彼らに頭が上がらなかったのだ。
それはスターティングメンバーを見ても明らかだった。エースのいっちゃん、センターの田中を除いて他はすべて玉岡出身のメンバーだった。上級生がいても後輩の玉岡出身者がレギュラーをとる。そんな状態だった。
同じく補欠仲間のハルオは、どうしてもレギュラーがとりたいと先生にファーストからセカンドへのコンバートを申し出た。答えはNOだった。お前はファーストで頑張れだとかなんだとか言われたが、理由は誰の目にも明らかだった。セカンドは玉岡出身が守ってて、その親は部長だからあきらめろ。そう言っているのと同じだった。
ある日、ビッグドリームズの監督の後輩が指導している中学校と練習試合になって、試合後にビッグの監督が練習を指導してくれるという話があった。ビッグの監督は高校野球の監督も何校か務めた人で、ビッグを3年で市内ナンバーワンにした名指導者だった。僕たち特にビッグ出身者は久しぶりの指導にワクワクしていたが、監督が姿を現すと怒鳴り声が響いた。
「なんであの男がグラウンドにいるんだ!!」
玉岡の父兄は怒り狂っていた。すごすごと帰っていく監督。みんなごめんねと謝り続けるセカンド。僕はだんだん大人が嫌いになっていった。
僕の心は腐り、ベンチでぐうたら過ごすことを享受していた。見かねた先生が僕に3塁のランナーコーチを命じた。ランナーコーチとは打球の行方を見ることができないランナーのために進塁かストップかを知らせる役目である。守備時はベンチで立って応援という決まりがあったのでランナーコーチになると攻撃時、守備時ともに立ち続けなければならない。一番損な役回りだった。ここまでの仕打ちは許せないと僕は先生のことが大嫌いになった。
僕たちのチームは強くいろいろな大会をそこそこ勝ち進んで、「ある大会」を勝ち進むともうひとつのほうに出場できなくなるという事態に見舞われた。その「ある大会」の予選の決勝、1点ビハインドで最終回を迎えた。ツーアウトランナー2塁。延長に備えブルペンではピッチャーが投球練習を始めた。先生がピッチャーに指名したのは投手経験のないセカンドだった。ストライクが入るかどうかさえ怪しい。先生は負ける気だ、と僕は感じとった。もう片方の大会を優先して、打たれても擁護してもらえる人選でピッチャーを選んだのだ。それならばと、僕は心を決めた。キャプテンがライト前ヒット。僕は迷わずランナーをホームへ突っ込ませた。アウト。試合終了。
「あれは間に合わなかった、後ろのバッターに任せればよかった」、みんな口々に僕を非難した。僕はどこ吹く風という感じでシラを切った。先生は僕に何も言わなかった。先生のお望み通りにやりました、僕は心の中で先生に敬礼をして笑った。
ある日の二軍戦。僕はフライを打ち上げてしまった。バットの先に当たったらしく変な音がして僕はファールだと思って走らなかった。しかし打球はフェアグラウンドに。気づいた時には遅く、一塁への途中でベンチに戻った。
「走んなきゃだめだよ」
見に来ていたとっくんのお父さんから声をかけられた。僕は彼を睨んだ。先生には怒鳴られ交代させられた。さんざんな日だ。
帰りの車の中で母親に悪態をついた。走んなきゃだめだよって言われた、殴ってやろうかと思った、と。
「……でも走んなきゃだめだよ」
母親が弱々しく言った。自分たちが父兄の悪口を言うから息子まで腐ってしまったと感じたようだった。明らかに自分のミスであることを素直に受け止められない根性になっていく息子を哀しく思ったのだろう。僕はその日以来一塁には必ず全力疾走をしようと決めた。
2年の冬、ビッグの監督が悩める中学生のために週2回、夜間のバッティング指導をしてくれることになった。ビッグにいた頃は指導なんかまったくしてもらえなかったけど、不思議なもんだなと思いながら参加することにした。というのも、顧問がまったく技術的な指導をしないせいで少しずつチームが弱くなっていたのだ。
僕は初めて指導を受けた。長打を捨てバットを最短距離で振るように。耳の後ろから前に出す。初めて教えてもらったことが嬉しくて家に帰って忘れないように真夜中にバットを振った。その日教わったことを忘れないように、体に覚え込ませた。
自分でも信じられないぐらい僕は野球が上手くなっていった。才能は確かにあるかもしれない。一を聞いて十を知る人と一を聞いて二しか知らない人もいる。だけど努力をすればいつかは十を知ることができるんだとその時実感した。
「チョイス、お前からは非凡なバッティングセンスを感じるよ」
ビッグの監督から初めてそう言われた時、嬉しくてたまらなかった。試合前は夜間練習が終わったあと、親にバッティングセンターに連れて行ってもらい、木のバットと試合用のバットで100球打ちこんだ。
その頃から二軍戦でも打率が上がり、クリーンナップを打つようになった。一軍戦でも使ってもらえるようになって代打率が4割を超えるようになった。ハルオは僕が代打で出る度に「代打の神様〜!」と叫んでくれた。とにかく打てるようになるのが嬉しかった。
ハルオも夜間練習に参加していた。ハルオは小塙の出身だったけどそんなことは関係なかった。そう、僕たちには出身チームは関係なかったのだ。だからこそ、親の都合で僕たちのチームワークが薄れるのはとても嫌なことだった。
僕とハルオで打ちまくって勝った試合があった。その日の帰りにハルオに「相手のチームならレギュラーになれるのになぁ」と言われたことがある。確かになぁ、と僕は返した。僕たちは上手くなるにつれて、いろんな大人の事情もあるけど、自分たちの実力が足りていないことも少しずつわかってきていた。
引退が近づいた3年の春、ある大会の決勝まで進んだ野球部。僕はあいも変わらずランナーコーチをやっていた。1点ビハインド。3塁ランナーがいて外野にフライが上がった。僕はGOと叫んだ。3塁ランナーはタッチアップを忘れて飛び出していた。得点ができなかった。僕のミスだった。しっかりランナーと確認しておくべきだった。
その後、もう一度チャンスがあった。ランナー2塁。一打同点。僕なら必ず打てる、それだけの練習をしてきた。実績もある。しかし代打に告げられたのは後輩だった。結果は三振。結局僕は大事な場面で起用されることはなかった。僕が打席に立ったら誰が何を言われるかわからない。それがこの野球部なのだった。
僕は野球部で一番先生に怒られた自信がある。やる気が見えない、バットのグリップがはげている。グローブが硬い。絶対に父兄から受ける圧力のストレスを僕にぶつけているんだと思った。ある日、とっくんが風邪で休んだ日、僕は打撃練習でワンバウンドのボールを気のないスイングで空振りしてしまった。すぐに先生に呼ばれる。今日はライバルがいない、お前のチャンスなのに何をしていると言われた。僕は初めて先生に言い返そうとした。この練習でホームランを何本打っても試合には出られないんでしょう?と。先生は父兄の意見でオーダーを決めるんでしょう?と。僕は込み上げてくる怒りを必死でおさえ、涙をこらえて練習した。
引退前最後の練習試合。あいも変わらずどうでもいい場面で代打に立たされた。初球、内角低めストライク。球速もあり、なかなかいいピッチャーだなと思った。2球目、ゆるいカーブがひざ下へ。ストライクの判定。3球目、ゆるいカーブがさらに低く決まる。ストライク。僕は3球で簡単にアウトになってしまった。主審のとっくんのお父さんを冷ややかな目で見ながら笑ってベンチに帰った。あれは無理だとみんなが笑ってくれた。この野球部に蔓延する出身という名の差別。僕はそれを覆すことがとうとうできなかった。
野球部最後の大会。負ければそれが引退試合になる。初戦、圧倒的にリードした展開で代打が告げられる。僕の中学最終打席だ。
初球を打て。ビッグドリームズの監督から言われ続けた言葉。どんなに怒られようとも決してやめなかった初球打ち。外角高めの見逃せばボールというストレートだった。僕は左手一本でボールを弾き返すとレフトに打球が転がった。野球部最後の打席、結果を出せた。理不尽にまみれて汚れた努力の集大成だ。僕は日韓ワールドカップの稲本選手の真似をしてガッツポーズをしながら一塁に走った。すぐ代走が送られた。ハルオだったら嬉しかったけど、別の仲間だった。
引退試合の後、僕たちは学校の会議室に集められた。先生が一人ひとりに声をかける。
「古川、お前は代打の神様だった。もっと試合で使いたかった。申し訳ない」
ビックリはしたが、いまさら謝罪を受ける気はなかった。こんなバカみたいな親のいがみ合いに子供たちが巻き込まれないよう祈るばかりです、と大人のコメントを心の中で残した。
子供のような大人を見て、努力する大切さと大人になることを学んだ3年間だった。
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