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俺の屍を超えるも超えないもない。決めるのはその人だけ。

週末は弔事に出ていた。身内に不幸があり、通夜、葬儀とお別れの場であったのでお返事が遅れた。自分自身も数年前に続けて祖父母を亡くしてそのことを思い出した。今の自分は寄り添いとかそういうこと、人から言われても説教がましくしか聞こえないのだが、ただただ、役割を果たそうとした。私がメインの場ではないので、ただそこにいるだけ。それも意味があることではないかなと考えている。

さて、今回はこんなお尋ねをいただいた。

それで、ぺんぎん氏に聞いてみたいのは、これからの世界は、そうやって好きだけを頼りに生きてても問題ないのか、それとも好きじゃないこともやっていかないと生き残れないのか、そのあたりについて思うところはありますか、ということである。

冒頭に書いたのは無関係なようで関係があることかもしれないね。人は、死んだら骨になるだけ。もちろん関係する人らの心の中には残る。それを生き続けるという人もいる。でも、事実は骨になるだけ。そんなことを思った。俺が幼い頃から上京するまでずっと一緒にいた祖父母もそうだったし、今回もそうだった。亡骸からちょっとの時間で骨になる。すごく不思議な気持ちになる。そこに哀しみもある。でも残酷なことに、人生は続くし、家族も続く。子孫がいれば、そのひとたちの未来がある。

好きだけを頼りに、の答えの前に最近印象に残った記事と呟きを紹介してみる。

最初はヒロミ。

まあいぬ氏と普段からやりとりしていることの関連みたいなもんで、中年期のこととか、転機にまつわるひとつのケースとしても読めるのだが、時流を得て一世風靡した人気者の葛藤とその後、ということで読んでみてほしい。すごいのは自らいったん芸能界はひく、としたことと、その間は別の価値観とか領域で精一杯やっていったということで、なかなか刺激になった。自分にもなぞらえた。

今俺は育休さなかなんだけど、ちょっとずつ今の時間の意味を感じている。当初感じていた良かったな感が、もっと深みある良かったな感になってきている。復帰後もポジティブにイメージできるようになってきたのが良い。もちろん、復帰後はわからないんだけど、結局自分の捉え方次第だし、気持ちは変えよう、と思って変えられるものではなかなか無いから、「時間」というのは大きいなと思う。

もうひとつは昔からたまにブログみていて、最近Twitter再開してから面白くて辿り読みしている広瀬さんの最近の呟き。

連続ツイートの途中からの引用になるが、非常に共感した。計画性の意味がどんどんと薄れるという。計画自体は大事なんだろうけど、パッパと変えていくよく言えばフレキシブルな、ま、言ってみれば適当なくらいが大事だと。

いぬ氏はご存知のように、俺は好むと好まざるとにかかわらずこれを体現しちゃっている。どうだ!とも言えず、もう性(サガ)としてどうしようもない感じなんだけど笑

あと、前後を拝読していて禿同すぎたのは元祖メンヘラ好きだったり得意にしていたり、でもゼッタイ捨てられるというルーティンを30過ぎまでやっていたが方針転換したことなどあったが笑。自己肯定感は高くなくて苦しんできたなあというのは違う点だったけど。

さて、そろそろ返答を考えてみよう。好きを頼りに生きていくか、それだけじゃダメか、ということなんだが、基本は「好き」しか人生を生き抜く資源にならないのではと考えている。これも橘玲氏が書いていることと同感。しかしそれは残酷な世界であるとも言っていてそうとも思う。好きを貫くことも難しいし、なにより好きを自覚できることはひとつの才能だと思っているので。

で、生活が続いていけば好きを頼りにしてよいし、生活のために好きで無いことをする必要も正直出てくるのがオッサンになるということでもあるだろう。だけど、だからと言って好きで無いことばかりを磨こうとすることは生命力を削ぐことであるというのがここ数年で一番の気づきであり実感していることもある。

俺で言えば、人材育成というのはその大きな候補になっている。(まだ確定してはいないので候補とする)もっとも稼ぎになったり人からもそう見られている「資源」なのだが、どうもやっていくうちに信条と異なる面が膨らんできたから。悪い面ばかりにフォーカスしちゃっている自覚はあるのだけど、人事の人材育成というのは洗脳であり、枠ハメであり、強制・矯正であるという感じが抜けない。そしてそう捉えがちというのが自分という人間なのであって、そう思っている自分を認めようというのが最近の心境なのだった。それで修士号までとったけど、ま、いまの自分はその領域でバンッと自分を見せていく力もモチベーションもないなと気づき、楽になった感じがある。

反論的に書いておくと、エンパワーメントとして人を縛らず個性を解放することが企業活力になるという考えで、人事領域ではそのために人的資源を活かそうという発想になってきている。それもそのとおりである。ただね、会社で成し遂げたいこともないし、スーパビジネスパーソンになりたいとも思わないし、労働者でしかない自分が企業に存在を賭してやっていくのは滑稽だなという気持ちになった。

好きなことがあって、そこの場に企業というのが大きく関わるから賭していく、というのは良いと思う。良い意味で共犯関係なのでお互いにとって良いこと。搾取だろうがブラックだろうが心地よく働けているのなら、金銭以外の資源を得ているとも言える。俺にとっては30前後までがそうだった。経験もいっぱいできたし人生楽しめたし、知り合いもたくさんできた。その時の資源でいぬ氏とも知り合えたわけだ。(余談だが、おそらく、そういう企業の資本側もやりがいという資源を提供できているのだから良いだろうとしているのだろう。それに自覚的であればそこにいても良いよねとは思う。ただし期間限定と思って。)

いぬ氏のしている(していた)クリエイティブとかコピーライティングということで言えば、私は「特権的な場」というふうには思う。たしかにメディアが多様化して、広告会社とかブランディングエージェンシーとかじゃなくても関われることは増えているのだろう。だが、ど真ん中まで行けなかった自分からしたら代理店の仕事は羨ましくもあった。クライアントはいれど予算もメディアや制作会社からしたら多くて、「戦略」は策定できる立場にあって、ケツ拭きはせいぜい出禁くらいでクライアントほどリスクもなくて。(皮肉ね。もちろんメディアも制作会社もクライアントほどリスクない)そんで、取引の経緯もあるから、クライアントがいちおう聴く耳持ってくれて、数千万から数億の予算を預けてくれるというのは体験してみたかったことでもあった。テレビ局がスポットで数億預かるのと、数億の予算を上流工程で預かりトータルコーディネートするのとではまた違うと思うので。

まあ、広告論は俺は現役ではないからこのくらいにしておくけど、実は俺は人事よりも広告とかコミュニケーションのほうが好きだったんだろうなと思ったりする。もともとは本好きから始まったのでメディア業とか出版とか書籍が大元ではあると思うけどね。その領域に戻れることはないだろうが、そのあたりの感覚を基盤にした戻ってからの仕事選びはあるなあと思っている。具体的には採用領域。数年やったけど、人事領域のなかでは一番あっていたし、私的感覚では人事ではマージナルな領域でもあると思う。ま、スポットライトも当たるんだけど、採用のプロはなかなかトータル人事職としてのプロではないのよね。なので、必ずしもリクルートの採用ビジネスのエースが人事のエースとも思っていない。

人事論もこのくらいにしておくがw人事のトップはサッカーの監督みたいな感じも持っている。経営者はGMとかクラブのオーナーで、監督は人心掌握と戦略・戦術と、人を動かすマネジメントの世界で、自分ではボール蹴れないしね。

さて、なんか質問と思ったけど、とくに話題転換したいわけでもないし、もう少しフリーにやりとりしてみたいので、ここに書いたことにコメントとかレスポンスがあればラリーしましょう。

Dag.

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