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「書きたい」気持ちの根本を探る

 小学生の頃から、文章を書くのが苦ではなかった。日記、感想文、作文。褒められた経験が支えてくれたのかもしれない。国語は(比較的)得意だったし、読書も好きな方だった。
 その一方で、話すのは苦手だった。小学校、中学校は本当に人前に出るのが嫌で、目立つ人が怖かった。今思えば、スクールカーストの下層にいたのだけど、仲間内では楽しく騒いだりもしていた。気の合う人だけでは完結しない世界が学校だから、当然悩むことも多かった。
 
 自分の気持ちを、外に伝えられない。だから、書くことに頼ったのかもしれない。文字にすれば、読んだ人には受け取ってもらえるから。心に積み重なる思いを書くことで形にした。

 高校はそれまでと雰囲気が変わり、自分自身の立ち位置も変わった。人前に出るのが大の苦手、というのが少しずつ解消された。大学でもそう。年を重ねるごとに自分の中の社会性は育っていったように思う。
 だからといって、書くことを切り離したわけではない。気持ちを口に出すことが少し楽になったことは確かだけど、文字にするのはずっと好きだった。ルーツはどこにあるのか曖昧でも、結局「書く」は私をつくる大事な部分なのだろう。

 社会人になって10年。昔の自分からは想像できないほど、意見は言うし愚痴はこぼすし感情を表に出して生きている。「学生時代は陰キャだった」という内容を信じてもらえないこともある。変わったという意識はなく、どれも自分なんだけど。しいて言うなら、コミュ力が段々上がっていったということなのかもしれない。
 いずれにしても、そんな自分は今も書くことが好きだ。創作、ライティング、要約、とか。分かりやすい一文にするための試行錯誤、上手い表現を見つける時間、とか。文章が出来上がる過程も好きだ。

 性格によって書くことに頼ってきて、結果好きになったのかなと思いながらこのnoteを書き始めたのだけど。どうやらそうではないのかもしれない。そういうことじゃない、「書くこと」の魅力を感じているのだと思う。上手く言えないけど。

(余談)
話すのが苦手だった理由の一つは、自分の声へのコンプレックスだと思っている。小学校入学したての時、返事をしたら「男みたい」と言われたことがあって。今も低い声は好きじゃないし、当時の引っ込み思案MAXの私ならななら、話すのが嫌になるには十分すぎる出来事だったかと。
(余談2)
学生時代は英語が好きだった。自分の気持ちが、日本語以外で表現できることへの感動、みたいなものが最初にあった気がする。これもまた、英語(とか語学)に興味を持つべくして持ったような感覚にさせてくれる。

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