記録する176
非日常感
非日常感を演出するエンターテイメントをよくみる。アミューズメントパークで非日常を提供できることを売りにしている場所もある。
一方で何年か生きて思ったことは、常に非日常的なことが起きているのに、なぜ非日常を求めるのか。ということである。
毎日違う自分が存在し、毎日違う時を過ごしている。一瞬たりとも同じものがない。日常的にご飯を食べているけれど、たまにご飯を抜くことがある。これも非日常。毎日ヨーグルトを食べているが、たまに食べないときがある。これも非日常。
世の中には非日常が溢れているのに、非日常的な体験がなぜいいとされているのか。
もしかしたら、非日常感はさほど重要ではないのかもしれない。
非日常を謳っている空間の中に漂っている、インスタ映えや居心地の良さなどが大事なのかも知れない。誰かと一緒にいたいけど、どこがいいかわからないから、とりあえずの場所として使っているのかもしれない。
非日常感ゲージという概念も考えられる。久々に会う友達に会うので非日常感+30、いつもより歩いたので非日常感+3、海外に行ったので非日常感+50みたいに非日常指数があって、その値が一定値を超えると非日常と認定する、みたいな。
こういったことを気分でも数値化していた過去を思い出す。
この記録ですね。
シナプスみたいに「一定量を超えると反応する」ような仕組みで人が動いてると考えがちなのかもしれません。
定量的に考えると日常感や非日常感に関しては圧倒的な日常も必要だと感じる。つまり、0の状態はなんなのか考えなければならない。気分と違い、正負で分けられないため、日常というベースラインが必要なのだ。
1日を大雑把に捉えると、起きて寝るという状態が最も常にやっていることの1つだと考える。ただ、起きて寝ることを0と考えると、流石にそれ以外のことをたくさんしすぎていて、あまりにも毎日が非日常になってしまうような気がしました。
日常を生きることのほうが案外難しいのかもしれません。
私が生きることができるようになります。