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本当の夢は、失ってから始まる

追うものじゃないのですよね。

Tweetしたスライドなのですが、これは私の社会人人生の中でも、最も大きな気付きのひとつです。

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優秀な人ほど、頑張っている人ほど、先を走る超人との差を感じてしまい、自分の評価を低く見てしまいがちなのです。

ただ、それは何を比べているのでしょうか。そして、比べていることは、本当に自分が望んでいるものなのでしょうか。

夢を追いかけるということ

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夢を追うことは素晴らしいことです。夢があるから、日々の色彩は深みを増し、目標から逆算して自分を客観視することができるものです。

夢は前に進むために必要なものなのです。夢を追いかけるから、人は走ることができる。夢があるから、逆境でも耐えられる。

なので、若い時から「夢を持て。掴みにいけ」と助言され、夢の大切さは説き継がれています。

とても前向きで、素敵なことだと思います。漫然と生きるには人生は長すぎる。何かに情熱を持って生きないと。

その情熱の矛先が夢なのです。遠い夢、近い夢。そのどちらもが、走る理由になり、生きる糧となります。夢は人生になくてはならないものなのです。

夢という呪縛

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しかし、夢は心を縛ってしまうこともあります。 夢は叶わないから夢とも言えます。そう簡単に実現しないものなのです。

それを追っている最中に、重要な二択を迫ってきます。夢を追い続けるのか、それとも諦めるのか、という重い二択です。

長く追えば自分の状況は変わります。ピュアに夢を追えなくなる。現実の問題が出てくる。その時に夢は呪縛となるのです。

中途半端に夢を諦めた時、夢は悔恨と共に心を縛り続けます。あの時、本当は。そう夢が語られることも少なくありません。

夢追いは真っ白な灰になるまでやりきらないといけないのです。まだ燃えている状態で諦めてはいけない。燃え尽くすことで、ようやく区切りがつく。

その夢は本当に自分の夢か

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そうして夢を諦めた時、人は目標を失うものです。どうすれば良いのかわからなくなる。それが、夢追いの反動です。

ただ、そこでようやく気付くのは、追っていた夢は本当に自分が望んでいた夢なのかということです。 心から自分が求めていたものなのか。

人は生まれた時から情報を浴び続けて育つものです。家族に、社会に。知らないうちに、夢は刷り込まれているものです。

冒頭の優秀な人の話と同じ構造で、他の人の道を自分の夢と思って走っているに過ぎない状況ではないでしょうか。前を見れば比較が始まる。

本当に見るべきは、作られた夢ではなく、先を走る先人でもなくて、自分の足元なのです。自分は何者なのか。何ができるのか。何をしたいのか。

本当の夢は、失ってから始まる

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このように、見させられていた夢が終わる時、本当の自分の夢が始まるのだと感じています。夢は失って初めて始まる。

他の誰との比較でもなく、他の誰かの後追いでもなく。自分がこれまで培ってきたもの。自分がこれからやりたいこと。

そんな過去と現在の自分に向き合うことから、自分の未来は始まるのではないでしょうか。比較ではない、他の人なんて関係ない、自分だけの夢。

それに気付くことができるのは、やはり燃え尽きる程に夢を失った時なのだと思います。何もかも失って、ようやく自分が残っていることに気づく。

夢を追う時は追い切ること。夢を失った時は自分を見つめること

どんな成功者の格言も、どんな傍観者の批判も、自分の夢を見つけられた人には関係のないことです。足元を、自分が何なのかを見ればよい。

自分らしい夢を見つけられた人は、幸せです。見せられた夢ではなく、自分で見る夢を。なんて、経験から思ったりしています。

夢は追うものじゃない。自分の心の内から見つけるもの。

ではでは。


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