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労働と休職日記

「それ以上笑うと私が怒るよ」

硬くなった頬の筋肉が少し解れる。

仕事からの帰り道、ゆっきゅんの「Re:日帰りでーlovely summer mix」のこの歌い出しで私は今日も「私」の世界に戻ることができる。






4月に第1志望だった某人材会社に入社し、華々しく社会人生活をスタートさせた半年後の9月末、私は適応障害になり約1ヶ月半会社を休んだ。
会社に行けなくなる前日まで、まさか自分が休職するなどとは1ミリも考えていなかった。

決死の受験勉強を経て、晴れて国立の理系学部に入学し、ひたすら研究に明け暮れたあと、就活での自己分析の末、人材営業を選び、そして今私は経理部で1ヶ月後に控える簿記試験に向け勉強に励んでいる。
(こうやってみると生きるの下手すぎる)

休職するまでの半年間、私にとって仕事は、「労働」というより「部活動」に近い感覚だった。
出勤前の憂鬱や営業電話をかけまくるための残業は、外練の日の朝の憂鬱と「もう10本!」と自分を追い込んだ居残り練習のそれと全く同じ感覚だった。

しかし、高校時代の頃の私はもういない。
当時キツイ練習に耐える私を支えていた、「うまくなりたい」という明確な強い目的意識とバイタリティは欠片も残っていなかった。

3日先のことすら考える余裕はなく、とにかく今日をどう越えようか、そのことだけで頭がいっぱいだった。
そして私の脳みそが私の危険信号を察知する前に、手っ取り早くドーパミンで脳をバグらせてしまいたかった。
結果、男と酒という嘘みたいに安直で弱い足場に縋るしか立っている術はなかった。
もちろん、そんな吹いたら飛ぶような脆すぎる土台が崩れるまでにそう時間はかからなかった。






「できません。」

変なプライドと断れない性格が相まって、この言葉だけは今もどうしても口にすることができない。

結果、気がつくと私は、入社2ヶ月目にして、トイレに行くときは必ず小走りをするほど業務に忙殺されていた。
加えて、トイレを極限まで我慢しているので、おしっこの色も尿素濃度高めのピカチュウくらいのパステルイエローだった。
(汚い話をしてごめんなさい)

「頑張ります」はもはや口癖で、2024年個人的流行語大賞があったらぶっちぎりの第1位だ。
私が頑張りますを使うときは、決まって、情報処理が追いつかず具体的なことは何も浮かんでいないけれど、とりあえず何か言わないと!のときだった。
5月辺りから私の脳の性能は、もはやずっと速度制限がきたスマートフォンさながらだった。






正直なにが1番しんどかったかと聞かれたら、明確な解は今も見つかっていない。

トイレに歩いていけない程の業務量。
どう校閲しても高圧的に感じてしまう、ビジネスメールの送信ボタンを押すときのあの心の圧迫感。
人の記号的な部分をなぞるために行われる、対話と呼べないお客様との面談時間。
成果主義カルチャー故の数字に追われる日々。

その全てが少しずつ、けれど確実に私を蝕んだ。

ただ中でも私のストレス要因として大きかったことが2つある。

1つ目は、毎朝の先輩との1on1ミーティングだ。
ミーティングの内容は、架電は1本何分以内、メールは1つ何分で返すなどとにかく詳細に詰める今日1日のスケジュール確認と、昨日のスケジュールがどの程度達成できたかの振り返り、この2つだった。

できませんが言えない私は、スーパーサイヤ人ばりのハイスペバリキャリお姉さん基準の中でスケジュールを立てる。
このとき、先輩にとっては長距離のペースが、私にとっては短距離走のペースだったりするので、100m走を10秒で走る計算式から1km約1分半で走りきるスケジュールができあがる。

もちろん走り切れるわけがなく、次の日の朝先輩になんと謝ろうか考えながら仕事をする、これが私のルーティーンだった。
(架電数が至らないだけで迷惑はかけていないのになんで先輩に謝る必要が?という必然的な問すらも浮かばないほどの余裕のなさだった)

自分の無能を毎日人に謝罪することほど自分を惨めな気持ちにさせる行為はない。

2つ目は、使いたくない言葉がスラスラと自分の口から出てくるときの、自分の輪郭がボロっと、音を立て崩れていくあの感覚。

私たちの業界では、いわゆる「市場価値」というもので人を測り、お客様を(商品として)強いとか弱いとかそういう表現をする。
人を、能力やスキルそういった表面の記号的な部分で評価する世界。
英語ができるかどうか、年齢が若いかどうか、そんな人としての豊かさとは程遠いところで人をジャッジする。

「市場価値」「自己研鑽」「成長」そういった私の嫌いな言葉を、営業トークのために絞り出しながら使うことは、私にとって自傷行為とほとんど変わらなかった。

「何ができるか」ではなく「どう感じるか」に人の豊かさの本質が宿ることは、私が愛してやまない作品達が日々教えてくれていることだ。

記号的なところで人に優劣をつけ評価しなければならないことは、その反対の行為であり、私が大切な作品たちと育んだ価値観を否定する行為そのものだった。

だからいつだって、人と話すことがとにかく怖くてしかたなかった。






業務内容も新卒にはこなせないが前提にあった。
故に存在しているだけで迷惑をかけているという思考が頭にこびりついて離れない。
だから、社内の人と話をするときはいつも申し訳なさがあった。

(両親教師で、人様に迷惑をかけないようにということだけは徹底的に教え込まれた身としては迷惑をかけながら生きることは生き地獄)

加えて、マナー研修がなかったことで、社会人として、私はずっと間違えているんじゃないかという不安が常にあった。

これらの不安と申し訳なさ、そして常に生まれるなにかしらの”できなかった”で私の視界は埋め尽くされ、その結果、現代の自責思考の産物たる私は毎分毎秒自分を責め続けた。

できなくて当たり前だよという励ましの常套句は、お客様を前に全く意味をなさなかった。
転職をしたい人からしたら、人生がかかって
いるのだから相手が1年目だろうと10年目だろうと関係ない。できないなんてそんな私都合で人の人生に責任なんか持てない。

できなくて当たり前という言葉の持つ無責任さを、とうとう私は許容することができなかった。






会社にいるときは、家で1人でいるよりも圧倒的に孤独だった。

人と文脈を共有することがこんなに難しいことなのかと思い知らされた。
会社の人といるときはいつも、その場の最大公約数をなぞるような当たり障りのないことしかいえなかった。
「なるほどね~(少し失笑を浮かべて哀れむように)」
「難しいよね~(一緒になって悩んでいますの少し苦しげな顔で)」
大袈裟じゃなくこの二種類のベビロテで生きていたと思う。
(会話サボりすぎ)

同期はみんな愉快な人だったけれど、常に比べられ、環境にライバル意識を強制された。
故に、何かを相談すること自体が、その人の別のストレスを誘発してしまうんじゃないかと思い相談することができなかった。

先輩はと言うと、「仕事」というベクトルで尊敬している方々は沢山いたが、人間として信用できる人は一人もいなかった。

日記を書いていると伝えると、「ポエム?笑」と笑う人の言葉は、右から左に私の耳を通過した。

しんどいことがあったら話してねと言われ、勇気を振り絞って吐露した私の必死の訴えは、俺/私はそれよりもっと辛かったから大丈夫だよという、先輩の不幸自慢をする前フリにしかならなかった。
(まじでなにが大丈夫なんだからわからない)

チームの何人かの先輩たちのグループチャットで私の悪口を言われていると分かったときは、本当に驚いた。
特定の誰かの悪口という共通項で繋がるコミュニティは、思春期と一緒に卒業するものだと思っていた。
そしてなによりも、明らかな目配せと隠語を多用した違和感のある会話を堂々としていて、なぜ私が気がつかないと思っているのだろう。

私という立場も力も弱い人間を嘲笑うことで、自分の足場を確立しているような大人に、明け渡せる私などほんの一部もない。

こんな人たちに、理解を求めようと伝え方や言葉選びを思考する気力はもうなくて、会社で感じた負の感情はすべて帰り支度でカバンに詰め込み家に持ち帰った。
(私のカバンは毎日パンパンで、その頃の私の家には特級呪霊がいたと思う)






自責思考と孤独感だけが募る勤務中、1つだけ好きでこだわっていた業務がある。

それは、その日の業界のニュースをメールで社内共有するという新卒限定のタスクだった。

300人以上が見るそのメールには、その日のニュースの概要と考察、そして、一言コメントを添える。
この一言コメントを書いているときが、私が唯一会社で息ができる時間だった。

それは、(数字に直接関係ない業務は無駄だというカルチャー故に) 傍から見たら無駄な業務でも、私にとっては自己表現ができる唯一の場所で、ある意味で居場所のようなものだった。

それ以外の時間、会社にいるときの私の呼吸は、興奮した犬くらいの浅さだったと思う。

そしてその一言コメントは、ある日突然マネージャーに禁止され、やんわりと不適切を告げられた。
私は、唯一の居場所をあっさりと失った。
そのとき鳴ったパリンっと言う音が、デスクのマグカップが割れた音ではなく、私の心が割れた音だと理解するまでには時間が必要だった。

そしてその日、落ち込む私を畳み掛けるかのごとく、仲の良かった同期がうつ病になったという知らせが届き、その知らせがトドメとなった。

次の日、朝目覚めるともう私の脳みそは速度制限どころか充電切れのあの赤いバッテリーマークしか表示できなくなっていた。






たった半年の社会人生活でわかったことなど、たかがしれている。
それでも、脳と感受性を鈍らせることが社会に適応するということなのだという逃れられない現実だけは、嫌というほど突きつけられた。

そして、休職中の1ヶ月半で1番辛かったのは、自分で自分を許すことができず1人悶々と自責思考という名の自傷行為を繰り返していた時間だ。

「あなたならもっと頑張れる」「そんなの甘えだろ」

ずっと家族や会社からそう言われているような気がしていたが、1番そう思っていたのは私自身なのだと気づいた日、私の手首はすでに目には見えない無数の傷で赤く染っていた。

それでも、病院に行って病名を貰ったことがずるいことのように思えてならなかった。

そんな自分を何とか受け入れて許せるようになったのは、故郷に住む父が「俺が悪かった。もう頑張らなくていい。仕事なら辞めてもいい。」と、この言葉を伝えるためだけに2時間半かけて会いに来てくれたこの日がきっかけだった。
復職一週間前のできごとだった。






そして休職中の1ヶ月半、私にとって「働く」とはどういうことかを考え続けた。

私は私の感性を守りたい。
嫌いな言葉は使いたくない。

これだけは譲れなかった。

社会人になって、自分の書く日記が無視できないほどつまらないものになっていくことが怖くてたまらなかった。

そして、今私は、「私」の世界を守るための選択をする。

それは、好きなことを仕事に!とかそんな夢のような飛び級ステップアップではなく、ただ今いる場所から最小限のリスクで逃げるための選択だ。






先日思い切ってずっとやりたかったオン眉にチャレンジした。
自分を大きく見せるためのハイヒールは復職後1度も履いていない。

そうやって少しずつ背伸びのない私でいるうちに、気がつくと休職前ほとんど毎日見ていた会社の夢は(嘘だと思いたいほど本当に毎日会社の夢を見ていた)今はほとんど見なくなった。

今の私にとって労働は、「私」という世界と「社会」という世界の行き来ーー「出稼ぎ」という言葉のニュアンスの方がしっくりくる。






先日、友達と文学フリマというイベントに参加した。

この文章を書くきっかけになった本もそこで出会ったものだ。

その本の中に、労働を部活動と表現する一節があり、その作者と握手を交わした気持ちになった。

私の足は、私の”好き”に向かうためにあるのだと、そう思わせてくれる1日だった。






「つまりもし君の選択や努力が徒労に終わることを宿命づけられていたとしても、それでもなお君は確固として君であり、君以外のなにものでもない。君は君としてまちがいなく前に進んでいる。心配しなくていい。」
(海辺のカフカ 上/村上春樹)

私の大好きな小説の言葉だ。

今日も私は、私の「好き」を胸に、信じるものを信じる強さだけを握りしめて、出稼ぎにでる。

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