仕事の歌(後半)【再録・青磁社週刊時評第五十一回2009.6.22.】

仕事の歌(後半)                川本千栄


(以下引用)
 私は約十年、ヘルパーをしている。仕事は好きで、たぶん向いている。まだまだ努力も足りず、試みたいこともある。だが一方で、仕事について考えることに疲れている自分がいる。(…)私が労働の歌を作るのを避けているのは、等身大の自分の姿を見たくないからだ。だが「等身大の自分」を歌から排除することは難しいだろうとも思う。労働と消費の距離の短さは労働を正面から歌う気持を減退させ、生きることの不安感を体内に蓄積させる。(…) 
           中山洋祐「労働の表現の変容について」『かりん』
(以上引用)

 中山の評論のテーマは「三十代以下の仕事の歌」であり、彼自身も三十代でヘルパーとして働いている。(前出の『短歌往来』の2007年3月の特集には彼自身の歌が収められている。)島崎の指摘とは違い、若い世代で、かつ、重労働に従事している作者だとしても、仕事の歌を好むわけではないことがわかる。この論にはむしろ、そんな等身大の自分を詠えない屈託が述べられているのだ。中山はこの論の後半で、三十代女性歌人の歌を引きながら、現在において労働の歌を歌う難しさと、どのような歌が時代の閉塞感を切り崩す力を持ち得るかを分析していく。やや例歌が少ないが、論理的な分析であり、現代という時代が持つ、仕事の歌や仕事そのものに対する複雑な状況とそれに寄せる思いを、理解する手がかりになると思われる。
 今回『かりん』の特集で、この特集の担当者である坂井修一が、「死に際に巨大化をする怪人のように企業の再編つづく」(松木秀)「どうやったら金持ちになれるのだろう朝やけが空を知らない色にしている」(花山周子)の二首を取り上げ、「ここには、世の中の何かを改善していこうとか、社会と自己の関係を主体的に結んでいこうとか考える若者はいない」とやや否定的な口調で述べている。しかし、本来個人の歌う仕事の歌というのは、そうした教条主義的な目的に奉仕するためのものではないだろう。仕事に対する高尚な思想があるからいい歌になるというものでもないのだ。
 最後に今回読んだ中でよいと思った仕事の歌を三首。
 薄紙を一枚いちまい剥がしゆく鉋引くなり息長く吐き 永松徳興(大工)
                         『短歌往来』5月号
 ぐんぐんと春植え甘蔗(キビ)の育ちゆきうるまの風吹くこの島愛し 大城永信(農業)
 飲食(おんじき)と死は斜向かいスプーンに歪んで映るわたくしの影 
斎藤真伸
(介護)

(了 第五十一回2009年6月22日分)


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