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山竹伸二『「認められたい」の正体』承認不安の時代(講談社現代新書)

 現代の「認められたい」という要求の根源を探った本。もっと社会学的な本かと思ったら、哲学的・心理学的なスタンスで書かれていた。有名な哲学のおさらい的な意味もあり興味深く読んだが、結論がなかなか実行しがたいように思えた。
 以下は自分のための覚書である。

〈一般的に家族は、「ありのままの自分」を受け入れ、認めてくれるような安らぎの場所が理想とされている。ただ存在するだけで無条件によろこばれ、本音を出し合える関係性。そこでは「偽りの自分」を作る必要性はまったくない。それが大多数の人間に共有された理想的な家族のイメージであろう。〉P.9
〈「ありのままの自分」を開示しあったとき、本当にお互いを受け入れあう関係性が築かれる、という保証はどこにもない。〉P.11
 映画『トウキョウソナタ』を例にして書かれた部分。
〈見知らぬ他者の承認を無視することは、たとえ身近な他者の承認だけで十分だという謙虚な気持ちに発するとしても、結果的に見知らぬ他者を排除することになりかねない。〉P.16
 自分の身近なグループの承認のみを追い求める、現代の承認要求だ。
〈人は「価値ある行為」によって承認され得る存在であり、私たちはコミュニケーション能力が低くとも承認の希望を持てるのだ。(…)「価値ある行為」よりもコミュニケーション能力のほうが承認を獲得する上で重要になっているとしたら、それは一体なぜなのだろうか?〉P.23
 著者はそこに普遍的な価値観の崩壊を見ている。
P.40 スタンレー・ミルグラムの「アイヒマン実験」
 ナチス親衛隊だったアイヒマンに名を由来する実験。ハンナ・アレントが「凡庸な悪」と呼んだ行為を、誰もが取り得る可能性を示唆している。
P.46 マズローの欲求階層説
①生理的欲求②安全欲求③所属と愛情の欲求④尊敬と承認の欲求⑤自己実現の欲求
〈ユングは、自己実現を個性化と呼び、それを「自分自身の本来的自己(ゼルプスト)になること」(『自我と無意識の関係』)だと述べている。〉P.47
 〈「人間の欲望は他者の欲望である」というラカンの有名な言葉も、哲学・思想の領域では広く受け入れられている。〉P.52
 ヘーゲル、コジェーブとも共通すると著者は後に述べている。
P.60〈〔親和的他者〕……愛と信頼の関係にある他者(家族、恋人、親友)→親和的承認
〔集団的他者〕……集団的役割関係にある他者(学校の級友、職場の同僚)→集団的承認
〔一般的他者〕……社会的関係にある他者一般の表象→一般的承認 〉
 これらがこの本の中心的考え方になっている。著者がフッサールの現象学から導き出した分類である。
〈「ありのままの私」の実感がともなう限り、相手に尽くして愛情を得ている面があるとしても、それはやはり親和的承認と言っていい。
 そうでなくなるのは、相手への愛情と信頼が薄れ、自分の努力が愛の条件のように思えてくる場合である。そうなると、相手への努力が重荷に感じられ、過度に抑制された自分に自己不全感を抱き、「ありのままの私」ではないように思えてくる。このとき、もはや相手の自分に対する愛と信頼は、親和的承認ではなくなってしまうだろう。
 親和的承認とは、人に「ありのままの自分」が受け入れられている、愛されている、という実感を与えるものなのだ。〉P.64
〈恋愛における片想いが典型的なように、どんなに努力したり相手のためにがんばっても、相手は感謝こそするかもしれないが、愛情まで与えてくれるとは限らない。しかもこうした感謝は、努力した行為への価値評価であり、そこに「ありのままの私」が受け入れられる余地はない。それでも感謝されるだけまだいいが、感謝もされず、理解さえされないこともある。こちらの愛情を利用し、自分が都合のいいように関係を続ける不誠実な人間もいる。
 親和的承認の獲得はかくも不確かなものであり、自分の努力次第で何とかなる、といったものではない。そのため、親和的承認にのみ固執していると、どんな人も大抵きつくなってくる。自分ではどうにもできない自由度の低さがそこにはあるのだ。〉P.65
 それを補うのが集団的承認であり、ある程度努力の余地がある、ということ、また道徳のような普遍の一般的承認であり、自分で自分の行動をそれに照らして価値付けできる、というものだ。ここに挙げたP64~65の親和的承認の難しさを述べた部分が本書で一番心に響いた。
〈私が他者に欲望されること、それは私が欲望されるだけの価値ある存在であること、私の存在価値が承認されることを意味している、そうコジェーブは言っている。(…)自己価値が承認されることは、ただ単に生きることを超えた、「生きる意味」を与えてくれるからだ。もし自分の存在価値が認められなければ、私たちは「生きる意味」を見失い、逃れがたい虚無感と抑うつ感に襲われてしまうだろう。
 承認への欲望とは自己価値への欲望であり、それは自らの存在価値を問い、「生きる意味」を求めることである。私たちがこれほど他者の承認を求めてやまないのは、このような人間存在の本質に根ざしている。〉P.77-78
 この辺りも身につまされる。
〈人間は承認だけでなく自由を求める存在であり、自由なくして幸福な人生を歩むこと、生きているよろこびを感じることは難しい。しかし厳密に考えると、「生きる意味」は「自分は生きるに値する」という自己の存在価値に対する確信と直結しており、この確信は他者の承認と無関係ではあり得ない。〉P.79
 フランクル『夜と霧』からの考察である。
〈価値観の相対化という時代の波のなかで、多くの人が自己価値を確認する参照枠を失い、自己価値への直接的な他者の承認を渇望しはじめている。〉
P.125
 その結果、身近な他者の承認に拘泥するということになる。それが再びの自由の抑制に繋がってしまう。
 神への信頼の失墜により伝統的価値観に重きを置けない、19世紀的ニヒリズムがニーチェやドストエフスキーを挙げて語られる。20世紀戦時のナショナリズム、60年代のマルクス主義への熱狂と70年代後半の退潮、さらには80年代のポストモダン(フーコー、ドゥルーズ、デリダ)による価値相対主義(絶対的な価値観は存在しないという思想)が語られる。
〈ただ、日本の社会ではもともと「身近な人間」の承認に対する意識が高かったのも事実である。〉P.172
 日本における特殊な事情だ。
以下「自己決定による納得」より
〈これは社会が強制したものではなく、自分で自分を縛っている面があり、自分の態度次第で変えられる可能性を持っている。必要なのは、他者への同調をやめ、他者の拘束から解放されること以前に、まず自分でどうしたいのかをよく考え、納得し、答えを導き出すことにほかならない。十分に考えて納得した上でなら、その人間関係から脱け出すにせよ、そこにとどまるにせよ、それは自分の意志で決定したことであるため、自由の意識は保たれるだろう。〉P.180
〈自己了解によって自分自身の欲望に気づくことができれば、その欲望からかけ離れた行動をやめるにせよ、欲望を抑えて行動するにせよ、自分なりに十分吟味した上で、納得のできる判断(自己決定)をすることができる。そこに、「自分の意志でやっていることだ」という自由の意識が生じるのだ。〉P.181
 この辺りが結論ぽいのだが、それをどうやってやるか、そこが難しいところではないだろうか。
〈「自分は無意識に○○だったんだな」と思ったとき、人はいままで気づかなかった自分を発見し、自己像(自分自身についての理解)を刷新しているのだが、それは結局、自己了解が生じていることと同じである。〉P.192
〈このように、自分の無意識に気づかされたと思える経験には、必ず自己了解が生じている。というより、「無意識」とは自己了解の後に想定された観念であり、無意識が実際に発見されるわけではない。〉P.193
〈治療者による無意識の解釈によって、患者は思ってもみなかった自分の欲望に直面する。それは最初、なかなか受け入れられないが、やがて「無意識のうちに欲望していた」と認めるとき、神経症は治りはじめるのである。〉P.193
〈無意識を解釈する精神分析家は、信頼できる他者(親和的他者)として承認を保証する位置に立っているため、本来は認めることに抵抗があるはずの(道徳心の根底にある)承認不安を自覚することができる。〉P.194 
  ここで再び面白くなってくる。「無意識」という言葉も普段案外いいかげんに使っているのかも知れない。

講談社現代新書 2011.3. 定価:本体840円(税別)


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