読者とは誰か(前半)【再録・青磁社週刊時評第九十二回2010.4.26.】

読者とは誰か(前半)             川本千栄

(青磁社のHPで2008年から2年間、川本千栄・松村由利子・広坂早苗の3人で週刊時評を担当しました。その時の川本が書いた分を公開しています。)

 3月29日付けの青磁社時評「批評とは何か」の最後で松村由利子から為された〈誰に向かって何のために書くのか〉という問いかけを自分のものとして考えていたところ、4月12日付けの広坂早苗の「誰のために批評を書くのか」を読んで、さらにいろいろ思うところがあった。2年間この青磁社時評を担当してきて、その時々の話題に合わせて様々なテーマで書いてきたが、私の問題意識の底には常にこの「私は誰に向かって書くのか」「他の論者たちは誰に向かって書いているのだろうか」ということがあったように思う。それは多分、短歌の評論を書くようになった十年ほど前から、小さからぬ違和感として私の心にひっかかっていたことなのだと思う。
 広坂はこう述べている。

 ところで、川本松村が「読者にとって」という時の「読者」は、誰を想定しているのだろうか。そもそも短歌批評の読者というのは、かなり限られた存在である。歌を作る人の中にも、作品は読むが評論は読まない、という人も多いだろう。読者は商業誌や結社誌の評論を読む習慣のある人、と考えればよいのだろうか。

 これは元々私の4月5日付けの時評「評論に求めること(2)」の中の一節「私自身の評論を書く目的は『(自分と)読者が短歌をより深く理解するため』ではないかと思っている。そのため、私は読者にとって『分かり難い』評論は肯定できない」を受けたものである。
続けて広坂はこう答えている。

   
 結社誌や商業誌に批評を書くとき、読者として漠然と想像していたのは、「自分と同じような人」だったのではないかと思う。自分の使う用語を概ね理解し、ついてきてくれる読者。そうした読者の存在を疑うことなく書いてきたように思うのだ。

 このように広坂の想定している読者は「自分と同じような人」つまり、短歌を詠みまた読む習慣のある人たちなのだ。つまり「短歌に日頃触れている人々」と言っていいだろう。
 私の「誰のために」も現実的には広坂と近い。読んでくれる人として想定するのは普段短歌に触れている人々である。

(つづく)

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