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石田光規『「人それぞれ」がさみしい』(ちくまプリマー新書)

 「人それぞれ」「みんな違ってみんないい」など口当たりのいい言葉で表現される現代の人付き合い。これはそうした「人それぞれ」を尊重するあまり見えて来る問題点について述べた論だ。分かりやすく現代社会の問題点を突いている。結論については、その通りだがそれが難しい、というところか。コロナの初期の頃に書かれた論には、そういえばそうだった的な記憶が蘇るが、もはや喉元過ぎて、私を含めて社会はこういった問題が起こったことを忘れ始めているのかも知れないと思った。

以下は自分のための覚書である。

 〈では、「人それぞれの社会」でため込んだもどかしい思いを、人びとはどのように処理しているのでしょうか。一つには、身近な人たちからは見えない場でのストレスの発散という方法があります。(…)
 もう一つは、メディアで提示される「友情の物語」の消費です。私は、一九八〇年代半ばから二〇一〇年代まで、友人のイメージがどのように変わったか、新聞記事をつうじて探ってきました。〉P.60~61
 一九九〇年代には読者投書欄に多かった「親友」の語が、二〇〇〇年代には演出化された「友情の物語」やフィクションなどに増えていく。著者はこれらを「無菌化された友情」と名づけている。
〈私たちは、さまざまな出来事について「人それぞれ」と言いながらも、心のどこかで、世の中は「それぞれ」に平等なのではなく、序列があることを知っています。(…)「人それぞれ」に物事を選択できる社会は、「人それぞれ」に責任を負わされる社会でもあるのです。しかも、選択の結果や選択の条件は、必ずしも平等ではありません。〉P.78~79
 条件はガチャ、結果は自己責任。
〈誰かと付き合うのも自由。付き合わないのも自由で「人それぞれ」といっても、多くの人はつながりを望んでいます。裏返すと、孤独・孤立を望んでいる人はあまりいないのです。認知科学の研究では、仲間はずれの痛みは、身体的な痛みと同じ反応を脳に引き起こす可能性があると言われています。〉P.87
 ここは本当に納得。特に最後の一文。
〈人間関係を「人それぞれ」に選べる社会とは、同じように「人それぞれ」の選択肢をもつ相手から、自らを選んでもらわなければならない社会とも言えます。このような社会では、相手の気持ちを満たすことのできる資源に恵まれた人ほど、豊富な関係を手にするようになります。逆に言えば、相手を満足させる資源をもたない人は、あまり目を向けられないということです。〉P.88
 「ただ存在する」ということだけではダメな社会ということだろうか。
〈「個人の尊重」の機運が高まるにつれて、世の中では、物理的あるいは経済的危害だけでなく、個々人の主義や信条を損なう行為や、心理的にダメージを与える行為も、「危害」としてタブー視されるようになりました。
 このような考え方を背景に、多くの人に広まっていったのが、「ハラスメントをしない」、「多様性を尊重する」という発想です。〉P.100
 字面だけ見ていると、これでいいように思えるが。
〈この多様性の概念には、他者の主義や信条、志向を損なわず尊重するという意味が含まれています。そのため、ハラスメントの防止と非常に近い方向にあると言えます。多様性を尊重する社会とは、ハラスメントのない社会とも言い換えられます。〉P.102
 なるほどと思う。ハラスメント=「いじめ」や「嫌がらせ」の無い社会は多様性=「ダイバーシティ」を尊重する社会ということだ。
〈ハラスメントや多様性といった概念が広まることで、いわゆるマイノリティに位置づけられてきた人びとへの理解が深まりました。これにより、今まで、抑圧に対して我慢以外の選択肢を持ち得なかった人たちも、自らの意見を表明できるようになりました。また、属性をもとにした差別は、表面的にはかなり解消されました。それ自体は非常に喜ばしいことです。
 しかし、その一方で、難しい問題もあります。境界線の問題です。〉P.102
 ここからが難しい。一面的なきれいごとでは収まらない部分だ。
〈マイクロアグレッションとは、簡単に言うと、「特定の個人を、その人が属する集団や、保持する属性を理由に貶める無意識のメッセージ」です。ハラスメントに似ているこの定義で注目すべきは、「無意識のメッセージ」という箇所です。
 そもそものメッセージが無意識に発信されたものであれば、発信者は、そのメッセージが相手を貶めるものと気づいていない可能性があります。そのため、マイクロアグレッションの解釈をめぐっては、発信者と受信者の間でずれが生じ、問題が複雑になることも少なくありません。〉P103~104
 マイクロアグレッションは初耳だった。これからもっと知りたい。
〈本来、「個を尊重する社会」では、お互いがみずからの意見を率直に表明し、活発な議論が行われるはずでした。しかし、他者を傷つけ、自らが傷つくことにおびえる「人それぞれの社会」では、活発な議論は望めません。人びとは互いに関心があるようにみせつつ、つながりから緩やかに退き、自らを守っているのです。〉P.109
 例えばフランス的な「個の尊重」と日本的な「個の尊重」には差があるのだと思う。フランス的なところを目指したがそうはならなかった。
〈世間に迷惑をかけた影響は、意外なほど長く、深刻になることもあります。「キャンセル・カルチャー」という言葉をご存じでしょうか。アメリカ由来の言葉で、問題を起こした人物や企業をキャンセルするーーつまり、解雇したり、不買運動を行う文化をさします。(…)キャンセル・カルチャーの怖いところは、時間をさかのぼって効果が発揮されることです。(…)ある表現を許容するかどうかは、時代や文化によって変わります。その点を考慮せずに、過去の表現を今のルールに照らして裁き、キャンセルを発動させる社会には、危険性を感じざるを得ません。〉P.117
 悪いものを悪いという態度はある程度必要だとは思うが、一つの間違いをその人の人生全部に当てはめてキャンセルしてしまうのは、まさに不寛容としか言いようがない。キャンセルのためのあら捜し的なことも行われていたと記憶する。
〈現状に息苦しさを覚える私たちは、「昔はもっと大らかだった」、「昔はもっと豪快な人がいた」などと言って、「人それぞれ」ではない社会の気楽さを懐かしみます。「生きづらさ」は、現代社会を象徴するキーワードのひとつになっています。その背後には、キャンセルや迷惑センサーをちらつかせて、委縮によって人びとを統制しようとするシステムの存在がほの見えます。
 かつて私たちは、農村社会を集団的体質の残る息苦しい社会とみなし、批判の対象に据えました。現代社会は、人びとを統制する方法がキャンセルや迷惑センサーに転じただけで、集団的体質そのものは変わりません。このような社会で「生きづらさ」を感じるのは、むしろ必然と言えます。〉P.126~127
 結局、本質は変わっていなかった。とても納得するが、とても絶望的だ。
〈もともと集団的体質を残している日本社会では、「特権的に利益を得ている」と見なされる人に、厳しい視線が注がれます。言い換えると、横並び圧力の強い「人それぞれの社会」では、迷惑センサー、特権センサーが敏感にはたらくのです。〉P.144
 コロナ初期の社会の状況を経験して、本当に息苦しいほどの集団的体質、あるいは横並び感を感じた。隠れていた面が剝き出しになったというか。今戦争が起こったら、とても簡単に「非国民」という語も復活するし、「密告」も頻繁に行われるようになるだろうと実感した。日本人のメンタリティは戦争を経ても何も変わってないと実感した。
〈「人それぞれの社会」には、そもそも個々人を分断し、対話を阻害する斥力とでもいうものがはたらいています。深い対話を阻害する条件がこれほど揃っているなか、はたして対話は可能なのでしょうか。〉P.171
 キーワード「対話」、そしてその実行の困難さ。
〈日本でインターネットのプロバイダがサービスを開始したのは、一九九二年です。その後、マイクロソフト社のウィンドウズ95を搭載したパソコンの普及により、インターネットは一般家庭にも徐々に浸透していきました。一九九九年には、携帯電話からのネット接続も可能になります。
 携帯電話は、二〇〇〇年には、日本人の五割以上がもつようになりました。パソコンの普及とあわせて考えると、インターネットは、プロバイダサービスの開始からわずか八年で、多くの国民に浸透したことになります。
 日本にスマートフォンが本格的に上陸したのは、iPhoneが発売された二〇〇八年です。『通信利用動向調査』によると、スマートフォンの所持者は、その後、わずか五年(二〇一三年)で過半数を超えます。つまり、インターネットサービスの開始から、わずか二〇年くらいで、日本人の多くが、個別にインターネットに接続する環境を手に入れたのです。
 ひるがえって固定電話をみてみると、サービスの開始は一八九〇年です。(…)固定電話の世帯あたりの普及台数が五〇%を超えるのは、一九七四年まで待たねばなりません(『昭和50年度通信白書』)。サービス開始からじつうに八〇年以上の歳月が流れています。〉P.174
 これは数値的な価値がある文章なので、ここに写しておきたい。これから考えると私が小学六年生の頃、固定電話の普及率は50%だったということか。全然知らなかった。どこの家にも電話は一台あるものだと思っていた。それから40年で過半数の人が一人一台、携帯電話を持つようになったということなのだ。
〈つまり、私たちは岐路に立たされているのです。その道は、個々人の選択や自由をあるていど犠牲にしても、つながりに頑健さを入れてゆく方向と、自由を尊重して、つながりの弱さや異質な他者の不在には目をつむる方向に分かれています。〉P.178
〈私は、相互理解をうながす深い対話は、つながりの頑健さの保証とセットで無ければ実現し得ない、と考えています。「『それぞれ』人の意向には配慮しましょう。でも、時には深く話しましょう」などというムシのいい言葉で、人が集まるとは思えません。
 「人それぞれ」や多様性を重視する論者は、「人それぞれ」や多様性という考え方じたいに、対話を阻害する作用があることも意識するべきでしょう。〉P.178
 やっぱりというかムシのいい話は無いのだ。頑健さという語がちょっと違和感。強固さ、とかの方がいい気がする。
〈「一人」になる自由を得る前、私たちは、気の遠くなるほどの年月をかけて対面中心の社会を築いてきました。顔を合わせて集団で過ごしていけるというのは、霊長類学の知見にもあるように、人類の比類なき財産です。私は、現代社会を生きる人びとは、ほんの少しでも、その原点に立ち返るべきではないかと考えています。〉P.185
 対話。自分がそれを欲しているという事をこの本を読んで気づかされた。

ちくまプリマ―新書 2022.1. 定価(本体価格820円+税)

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