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角川『短歌』2021年6月号

人知れずよきことをしてくださいとおみくじのあるさびしいお寺 大橋智恵子 難しいことだな。美しいとも思うけれど。それが「よきこと」だという意識が無く、当たり前だと思うから、出来るし続けられるのだと思う。凡人は「よきこと」をしたら、知ってほしいし褒めてほしいだろう。

 なにかいいことを言ってほしくておみくじを引いたときに、こう書かれていたら、自分のダメさを痛感してテンションが下がりそうだ。それもあってこのお寺は寂れているのかも。いつも行く近所の神社のおみくじは和歌に添えて、可も無く不可も無いことが書いてある。中吉より小吉の方がいいみたいだったり。へぇ、と思うが、すぐ忘れることができて、引きずらない。

②江戸雪「時評」〈現在浮上しているのが、「自助」でも「共感」でも「犠牲」でもなく「利他」という考え方だそうだ。〉この後、江戸は『「利他」とは何か」(伊藤亜紗・編 集英社新書)という本の中島岳志の「利他はどこからやってくるのか」という評論を紹介している。

前医から後医に患者を渡すとき命の重さが少し膨らむ 犬養楓〈ここで、先述した中島岳志氏の、利他は私たちの中にあるのではなく常に不確かな未来によって規定されるものだ、という言説を思い出す。すると、疲弊と不安のなかで探り当てた短歌の言葉「命の重さが少し膨らむ」という表現などのなかに利他への手がかりがあるようにも思えた。〉私は中島岳志の評論を読んでいないので、断言できないが、中島の言う「利他」と犬養の歌で表現されている、職業としての使命感は少し違うと思う。接する相手に最大のことをしたいと思って仕事をしている人は多いだろう。お客のためとか患者のためとか。利他ってそれなのかな?むしろ職業を離れて(対価の発生しない場で)人のために何かするのが利他のように思う。それこそおみくじの「人知れず善きことを」して下さいという言葉のように。ただ対価を超えて自己を仕事につぎ込み、疲弊と不安の中に利他の発生を見るという感覚も分かる。難しいな。

③江戸雪「時評」〈他人の歌は、分からないものなのだ。(…)分からないからといって放り出すのではなく、たとえば歌会で何だか分からないけれどいいと思える歌についてぼそぼそと語ることを恐れたくない。歌のなかの、あるいは批評のなかの混沌から思ってもみない自分を見つけることが出来るかもしれない。それこそが歌を作って読む楽しみのように思う。(…)訳のわからない藪の中に手を入れてみる勇気を持ちたい。〉自分の知らない自分が歌に引かれて出て来る。それこそが詠み・読む喜び。全共感だ。

2021.7.15.~16.Twitterより編集再掲