単純化の陥穽(後半)【再録・青磁社週刊時評第四回2008.7.7.】

単純化の陥穽(後半) 川本千栄

    しかし、穂村が、二首の対比のみを以て茂吉塚本という歌人の対比に換え、さらに近代と戦後という時代の対比に換えていくのを聞いていると、次第に違和感を覚え始めた。この茂吉塚本の対比は穂村の近著『短歌の友人』の中でも論じられていることだ。少しその部分を引用する。
 
 〈近代〉を代表する歌人として斎藤茂吉、〈戦後〉を代表する歌人として塚本邦雄を想定するとき、我々は次のような印象を抱かないだろうか。すなわち塚本邦雄の歌は確かに凄い、でもどこかオモチャのようでもある、一方、斎藤茂吉の歌はやはり凄い、そして全くオモチャのようではない、と。この印象の違いはどこから来るのだろう。                    「三つの時間」(『短歌の友人』二〇〇七)

 近代歌人の中で斎藤茂吉が、戦後の歌人の中で塚本邦雄が傑出した存在であったことは論を待たないだろう。しかし茂吉は近代歌人の、塚本は戦後の歌人の、典型と言えるだろうか。その彼らをそれぞれの時代の「代表」に想定するのは、甚だ無理があるように感じる。むしろ彼らは時代の枠組みに収まらないところこそが魅力なのだ。この傑出した二人の歌人を、それぞれの時代の「代表」として挙げ、その歌を対比することは、果たして近代と戦後を対比することになるだろうか。二つの傑出した個性の対比に終わってしまう、つまり、個性に還元すべき次元の問題を、時代に還元しているのではないか。近代と戦後という対比にするのならせめてもう一人、北原白秋なり近藤芳美なりを挙げ、近代・戦後の分析をもう少し丁寧にしないと論に無理が生じるだろう。
 穂村は一つの個別的な事象を鮮やかに説明した後、それを全体に当てはめていくという論理展開を用いることが多い。例えば、対談中の、現代は誰もが塚本のような映像を見る視点で現実を見ている、などのまとめ方である。穂村が「今はこれこれな時代ですから、歌がこうなるんです」的な大まとめの意見を言い、小池が「いや、みんながそうじゃない、少なくとも自分は違う」といった反論をする場面もあった。
 確かに対比点に対する穂村の目の付け所は鋭いし、名前をつけるセンスは抜群である。今までにも、「わがまま」「棒立ちのポエジー」「圧縮と解凍」など穂村の作った用語が歌壇の論を活性化してきたことも事実である。穂村が、事象を単純化してそれに魅力ある名前をつけた上で、対比する点を明確にして問題を提示した時、目の前の霧が晴れたように感じる読者もいることだろう。
 しかし、明快で分かりやすいことには常に落とし穴がある。単純化したときに零れ落ちてしまうもの、そこにこそ大事な問題があるのではないか。近代の代表を茂吉、と言った時点で短歌の近代の大事な問題点が多く抜け落ちてしまう。戦後の代表を塚本、と言った時点でも同様である。そしてその代表を全体に当てはめた時に、論は最初の鋭い分析から随分離れた地点に到達してしまうのではないか。先日の対談で小池がポツポツ反論していたのはそうした点であると感じた。

了(第四回2008年7月7日分)

この記事が参加している募集