見出し画像

ロラン・バルト 宗左近訳『表徴の帝国』(ちくま学芸文庫)

 日本についての著作。哲学を読みなれないせいか、なかなか理解が難しかった。これはバルトの観念そのものが難しいのか、用語が難しいのか、あるいは翻訳の問題か。表現体(エクリチュール)、表徴するもの(シニフイアン)、表徴されるもの(シニフイエ)、表徴化作用(シニフイカシヨン)、表徴(シーニユ)、表徴体(シニフイアンス)とこれだけでもお腹いっぱい。訳注の最後の最後に〈表徴されるもの(内容)〉(P194)という部分があったが、そういう簡単な語で訳してはいけないのだろうかなどと思った。
 また図版の最初と最後が舟木一夫の武者姿の顔写真だったり、沢田研二が「タイガースのメンバー」とだけ説明されていたり、なぜこの理論にこの人の写真が?と思うこともあった。図版によって、著者の言いたいことの理解が、却って妨げられているようにも思った。

 内容的に面白いなと思うところは結構あった。例えば
〈《天ぷら》にあっては、フランス人がむかしからフライに与えてきた意味感、重さという感覚が取りはらわれている。《天ぷら》において、小麦粉は散って軽やかに水にとけ、捏粉(ねりこ)ではなくて乳と化した花のような、その本質を発揮している。油に捕らえられたこの金色の乳液は、ひどくあわあわとしていて、食料の断片を不完全に包み、小海老のバラいろ、ピーマンの緑いろ、茄子の褐色を浮きあがらせて、皮質性、外皮性、稠密性というフランスの揚げものの特性を、フライから奪いさってしまう。〉(P41)
〈そして、その物質のなかからたねが浮びあがってくるときには、それはもうできあがりである。一つ一つに分けられ、個々に名前をつけられ、しかもすきまだらけのものとなっている。そして、そのころもはひどく軽やかであり、そのために抽象的な存在となっている。もはやこの食べものは、おのれを包むものとして、おのれを凝結した時間しかもたない。〉(P43)
〈その料理人の行動が文字通り、書であるためである。料理人は食べ物を素材(マチエール)〔油〕のなかに書きつける。まな板は文机のように並べられている。墨皿、筆、硯、水、紙、これらを交互に使う書家(とくに日本人書家の場合)さながらに、料理人は素材(マチエール)を使う。〉(P46)
 日常のものをこのように解釈しているのに、違和感と感嘆の両方を感じる。日本人でなければ、もう少し素直に理論に親しめるかもしれない。

追記:訳者は「シーニュを記号、シニフィアンを能記、シニフィエを所記などと訳さなかった」と書いている。確かに能記と所記はそっちの方が分かり難い。シーニュは記号と表徴のどっちが分かり難いかは微妙。やっぱり思想以前に言語で、言語というより翻訳で引っかかってしまう。

ちくま学芸文庫 1996.7.(使用した文庫は2007.5.の13刷) 定価(本体価格1000円+税)

この記事が参加している募集